「心に植え付けられた御言葉」
詩篇126篇は「都上りの歌(120一134)」です。BC586年に、バビロンに捕囚されたイスラエルの民はエレミヤ25:12、29:10、イザヤ44:28、45:1)の預言にあるように70年後BC516年に帰還します。しかし、この帰還は涙を伴う苦難の連続でした。(エズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書)この経験を通して神はイスラエルの民の信仰を訓練されたのです。【1】イエス・キリストによる救い一捕われ人(罪に捕われた人)が帰された時(罪から救われた時)(126:1,5) 「種を蒔く」(5)の意味については新約聖書の「種蒔きのたとえ」(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章)から分かることは(1)種は神のことば(ルカ8:11)です。(2)蒔く人は御言葉を蒔く人(イエス様の救い、福音を伝える人)(マルコ4:14、1ヨハネ3:9)※ この譬えから詩篇126篇を理解すると、1ペテロ1:23一25「朽ちない種は神の言葉、朽ちる種はこの世の言葉(人間の知恵)人の人生はみな草のようにしおれ、咲いた花は散り、死んで行きます。しかし主の言葉(イエス・キリスト)は変わることがありません。1ペテロ1:25 しかも福音のことば(十字架と復活による救い)は宣べ伝えられます。そして良い地、素直な心に蒔かれた種(御言葉)によって救われる人々がおこされ、30倍、60倍、100倍(マルコ4:30)の豊かな実を結びます。※ イエス・キリスト様の十字架によって自分の罪が赦されたこと、3日目の復活によって神様と共に永遠に住むことが約束されたのです。(ヨハネ5:24)捕囚からの帰還の喜びは「イエス・キリストの福音の言葉」によって罪が赦され、新しい神様との義(正しい関係)に入れられた喜び、叫びです。(126:2、6)【2】イエス・キリストによって互いに愛し合う(126:2一4) 「ネゲブの川のように」(126:4)パレスチナ南部の荒野の地域、枯れていた川床、不毛の地(心の失意、苦しみ、悩みの意味)に雨期になって大雨が降り、水が溢れるように流れる川に変わります。(心の中に聖霊の雨水が降り注がれる)するといっせいに草花が生えて、豊かな実りの地に変わります。※ 現代の私達の信仰の回復は、これとよく似ています。罪に苦しみ、悩み、悲しんで、飢え渇いている心に、聖霊の水が注がれると、生ける水の川が流れ出るようになります。(ヨハネ7:38一39)捕囚の民が、バビロンで苦難を経験して70年後に突然、ペルシャ王クロスによって帰還させられることの喜びが詩篇126篇なのです。※ 現代の私達も同じように「ネゲブの川が溢れています」「私達は、神の栄光を見て大いに喜んでいます。…患難、忍耐、練られた品性が希望に変わるのは、私達に与えられた聖霊によって神の愛が私達の心に溢れるばかりに注がれているからです。」(ローマ5:2-5) ※ このイエス様の愛をもって「私達は互いに愛し合うことです。」「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種(イエス様の十字架と復活による救いの言葉、福音)がその人のうちにとどまっているからです。」(1ヨハネ3:9)「わたし(イエス様)の言葉が、あなたがたに留まるなら…あなたがたは多くの実を結び、私の弟子となることによって、わたしの父(父なる神)は栄光をお受けになるのです。…わたし(イエス様)があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:7一12)ネゲブの水(聖霊)が与えられてはじめて愛する実が与えられるのです。(ガラテヤ5:22一23)※ 聖霊に満たされるように日々聖書を読み祈りましょう!! 【3】イエス・キリストによって与えられる実 詩篇126:5一6「種を蒔く者」についてパウロは奉仕(献金)について2コリント9:6-15で「少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります。(9:6)…あなたがたに、蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(9:10)(1)「義の実」は神との正しい関係がより多く与えられて、関係が深くなる愛の関係を表します。(2)「聖霊の実」ガラテヤ5:22-23「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」この実は結果です。ですから詩篇126:6「涙と共に種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取ろう。」※ 現代、イエス様の言葉(聖書)を心の中に蒔くことは「義の実」である「神様との関係を深くします。」そして「種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」※ 現代イエス様の遣わされる聖霊様によって、溢れるばかりに豊かな、聖霊の実を結ぶことができるのです。それが互いに愛し合うことです。試練による心の耕し(涙と共に種を蒔く)ネゲブの流れ(聖霊の水の注ぎ)そして与えられる収穫(束をかかえ喜び叫びながら帰って来る)これが私達クリスチャンの信仰による喜び楽しみ感謝の歌声がある生活です。ハレルヤ!!
「神の御言葉・イエス・キリストの愛」
詩篇119:105
「喜び楽しみ、感謝の歌声を上げよ」イエス様に救われた私達の礼拝の姿です。
詩篇119篇は176節あり、語句はヘブル語(アレフ・ベース・ギメル…22個)
アルファベット(あいうえお)の形式、8節ずつ、22段落あります。
中心の聖句は「主の御言葉・教え(ト-ラー)」が与える人生の救いです。
なかでも有名な詩篇119:105から学びます。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
【1】イエス・キリストが 「道」(119:105)
※詩篇119篇の著者は「人生の苦しみや苦難を経験しながら、神の言葉(ト-ラー)がどんなに救いを与えてくださったのか」この主の恵みを語っています。神の言葉に関わる10の言葉(1)みおしえ(2)ことば
(3)みことば
(4)仰せ
(5)さとし
(6)裁き
(7)戒め
(8)おきて
(9)道(デレク)
(10)小道(オーラハ)
※119:105はヘブル語で「道」(デレク)=(1)通り道、歩いてできた所
(2)生き方・人生・神の御心を知る
(3)踏みつける、受け入れるです。
これらすべてをイエス・キリストご自身にあてはめて読みます。
すると「神の言葉」はイエス・キリストの救いのことであることが分かります。
※現代、私達の救い主イエス・キリストは「私は道である」(ヨハネ14:6)と言われました。 「道」は「踏みつける、受け入れる」という意味です。
※「道」である、イエス様ご自身が私達の身代わりとなって十字架で全ての罪を 受け入れ、踏みつけられました。何の罪もないお方が、十字架に釘づけられ、 槍で刺されて苦しまれ、罵られて死刑にされました。
※「道」はその上を歩く人々を拒みません。靴で人を傷つけるようなスパイク、 かかとが尖ったハイヒール。罪でよごれた人の靴の大きさ(罪の大小)は、かまい ません。ずっと続く車の跡(罪の切れ目がない人)。人が吐き出す汚物(罪の 結果)。イエス・キリストはどんな人の罪も受け入れて死なれたのです。
イエス様は「あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)と言われて、
あなたを受け入れて救いました。
主に感謝します。 ハレルヤ!
【2】イエス・キリストが、
足 の 「ともしび」(119:105)
※ヘブル語「ともしび」(ネール)=ランプ・皿に油を入れて、あま糸に火を灯した物 ※神の言葉を今日の事柄、近日中の物事に使われます。著者は119:59
「私は自分の道を思い返し、あなたのさとしの方へと私の足を向けました。」
※私達が「神の言葉」であるイエス様に今日を、導びいていただく為には、自分中心の道から、神中心の道へ方向を転換する事(悔い改める事)です。
私の毎日の祈りは
「私は私の道を申し上げました、すると、あなたは、私に答えて下さいました。どうか、あなたのおきてを私に教えて下さい。あなたの戒めの道を私に悟らせて下さい。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜める事ができるようにして下さい。私の魂は悲しみの為に涙を流しています。御言葉のとおりに私を堅く支えて下さい。私から偽りの道を取り除いて下さい。あなたの御教えのとおりに、私を哀れんで下さい。私は真実の道を選び取りあなたのさばきを私の前に置きました。私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないで下さい。私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くして下さるからです。」(119:26-32)
※イエス様の道を毎日(足もと灯として)を選び取って行くと
「あなた(神)は私の心を広くしてくださるからです。」119:32
そこには、賛美があり、感謝が生まれて、心の解放(広い心)になります。
※イエス様は良い羊飼いです。
近視眼である羊(私達)はイエス様によって足元を導く光となって、良い地へと導びいて下さいます。
イエス様が「ともしび」の役割をして下さるのです。
「彼(イエス様)は自分の羊を皆引き出し、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼(イエス様)の声を知っているので、彼に従って行きます。」(ヨハネ10:4)
※「ともしび」をともし続けるには「油」である【聖霊様】が必要です。
今日、私達はイエス様が遣わす聖霊様によって聖書(説教)と祈りによって人生を導びかれましょう。
【3】イエス・キリストが 「光」
(119:105)
※ヘブル語「光」(マーオール)=・光源・明るく輝く・神の臨在・真理・喜び・命 として救いの象徴を表わす。
※ギリシャ語(ホース)は・神の栄光・希望・救い・イエス・キリストの救いを表わす。
※創世記1:3
「光よあれ。すると光があった。」
※ヨハネ8:1
2「私(イエス・キリスト)は世の光です。」
イエス様が、私(クリスチャン)の道の光です。「わたし(イエス様)は、世の光です。私(イエス様)に従う者(信じる者)は決して闇の中を歩むことなく、命の光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
※聖書の創めに、神は光として人間との交わりを初めました。
「闇」の世界から「光」の世界へと
創造された。
神様は、罪を犯した人間の「闇」を再び「光」の世界に取り戻すために、イエス・キリスト様を「救い主(光)」としてこの世に遣わされたのです。イエス様が罪(闇)を取り除く為に全ての人間の罪の身代わりとなって十字架につけられました。そして3日目に復活して、新しい命(永遠の命)を約束して下さいました。このことを信じる全ての人は(1)闇(罪・死) から解放されること。そして(2)永遠の命・復活の命が与えられます。
「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中に留まることのないためです。」(ヨハネ12:46)
※そして、神様はイエス・キリスト様を信じる事の出来るように 、
聖霊様を助け主としてお与えになりました。(ヨハネ14:16ー19)
「誰でも聖霊によるのでなければ、『イエスは主です。』と言う事はできません。」
(1コリント12:3)
※「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ3:16)
※「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、命なのです。わたし(イエス・キリスト)を通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来る ことはありません。」
(ヨハネ14:6)
※私達は、神の言葉であるイエス・キリスト様を信じる為に、毎日聖書を読み祈る事によって「足もと」の物事の判断を聖霊様によってする事が出来ます。そして将来の「光」である計画・ビジョンを聖霊様によって行う事が出来ます。
※今日、神様の声(聖書)を聞き祈り、聖霊様によって、イエス様に従って永遠の命の道を歩みましょう。 ハレルヤ!
「主を愛る(慕う)」詩篇18:1~6、16~19
私達が「喜び・楽しみ・感謝・歌声をあげる」人生はどんな時にもできます。それは、苦しみ、悩み、悲しみの時もです。
その理由を詩篇18篇から学びます。
【1】主が私を喜びとされたからです (18:19)
父なる神と御子(イエス様)と聖霊様の三位一体の関係は、
⑴互いに愛し合い、助け合い、共有する関係です。もちろん一体でありながら、その働きが違います。父なる神は、御子(イエス様)を、私達を愛するがゆえに、罪からの救い主として遣わされました。
その遣わされたイエス様に父なる神はこう言われるのです。
「あなた(イエス様)は私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)
そして「私(イエス様)があなた方を愛した」(ヨハネ15:12)と
弟子たちに言われたように、私達を愛してくださいました。
⑵「主は我が救い主」となられたのは、主(神様)が私を愛して下さったからです。「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに世(あなた・私)を愛された。それは御子(イエス様)を信じる者が一人として滅びる事がなく、永遠の命を持つ為である。」(ヨハネ3:16)
⑶ですから、イエス様は、ダビデ(私)がどんな苦しみ、悩み、悲しみがあっても「我が力・我が巌・我が砦・我が岩・我が盾・我が救いの角・我がやぐら・我が救い主・主は褒め讃えられる方・我が神」となって下さるのです。※クリスチャンは天の御国で完全に「喜び・楽しみ・感謝の歌声をあげます。」
「キリストにあって、その永遠の栄光の中に招き入れて下さった神ご自身があなた方をしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者として下さいます。」(1ペテロ5:10)
【2】主の謙遜は私を大きくされます。(18:35)
父なる神様はイエス様の十字架と復活によって私達の罪を赦し、復活の命(永遠の命)をお与えになります。それは「御子(イエス様)を私(自分自身)の救い主と信じる事」によってです。
まず初めに「神が私達を愛して下さった」(1ヨハネ4:19)からです。
その愛は『主の謙遜』として私達に表わされました。
それは、神様が人間となられて、私達の罪の身代わりとなって死んで下さる事でした。そればかりではなく3日目に復活して、私達を御国へ招いて下さったのです。『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる事ができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ神は、キリストを高く上げて、全ての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが、膝を屈め、全ての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が褒め讃えられる為です」(ピリピ2:6-11)
詩篇18:3『主はほめたたえられる方です』それはダビデをあらゆる敵(暴虐)・苦しみ・悩み・悲しみ(Ⅰ・Ⅱサムエル記の歴史)から「救い出し」18:48『主なる神』でありました。(Ⅱサムエル22章は同じ詩篇です)
私達も同じように『人生の敵である病気、難しい人間関係、会社や社会のプレッシャー、家族の中の夫婦、親子、兄弟姉妹の人間関係、友人知人の人間関係の中で』自分の力でなんとかしようとしても解決がつきません。だから、全知全能なる主(ヤハウェ)に『私は苦しみの中で主を呼び求め、助けを求めて、わが神に叫んだ。主はその宮(主のおられる所)で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは御耳にとどいた。(18:6)…主は強い敵と憎む者とから私を救い出された(18:17)…主は私を広い所(解放を表わす)に連れ出し、助け出された。主が私を喜びとされたから。」(18:19) 父なる神の喜びは『罪に悩む人々を罪から救う為にイエス様が人間と同じようになり、罪人の身代わりになり、十字架で死に、3日目に復活した事によって全ての罪が赦された証拠を見たこと』です。 そして、このイエス様の謙遜のゆえに『私(罪赦されたクリスチャン)を大きく(強い者、偉大な者)」(18:35)として下さるのです。
【3】主(イエス・キリスト様)を信じる者は『主を慕います(愛します)』(18:1)『主はダビデの全ての敵、特にサウルの手から救い出された日に、この歌の言葉を主に歌った。』そしてこの詩はⅡサムエル22章ダビデの晩年にも書かれています。ダビデの人生が、この詩の中に凝縮されています。
自然界の荒々しさと敵との戦いの苦しみ悩みの中にあっても、主が勝利して、全ての禍、敵から救い出された。それはひとえに『主が私を愛して下さったからです。』ですからダビデは『私はあなた(神)を慕います。」【ラーハム=愛します(動詞)⇒ラハミーム=愛・あわれみ(名詞)】
詩篇103:4では『あわれみ』のお方として表現しています。ギリシャ語はスプランクリソ"マイです。神様が特別に『深いあわれみ』を示す時、使われました。(新約聖書は12回) 例えば『放蕩息子の父親がその息子を
『あわれみ・その罪を赦す』為に使われました。その言葉をダビデが使ったことは、詩篇18:50の預言を意味しました。『主は王に救いを増し加え、油注がれた者(イエス・キリスト)ダビデとその末(クリスチャン)にとこしえに恵み(へセ一ド⇒ギリシャ語アガペ神の愛)を施されます』ダビデはイエス・キリストのひな型です。ですから神様と同じ愛をもって愛することをここで預言しています。※ダビデの末であるイエス様を信じるクリスチャンの私達は、
イエス様と父なる神が愛をもって結ばれているように、三位一体の主なる神様に愛という絆で留まり続けましょう。ぶどうの枝が、ぶどうの幹につながっていなければ、実(聖霊様の実)を結ぶ事ができません。『あなた方が私に留まり、私の言葉があなた方に留まるなら、何でもあなた方のほしいものを求めなさい。そうすれば、あなた方の為にそれが叶えられます。・・・私がこれらの事をあなた方に話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされる為です。」(ヨハネ15:7.11)※現在の私達クリスチャンは、救い主イエス様の愛の中に留まり続ける事です。主の宮(教会)で、喜び楽しみ・感謝の歌声を上げる礼拝を致しましょう!!
「神を愛する人達、すなわち、神のご計画にしたがって召された人達のためには、神が全ての事を働かせて益となることを、私たちは知っています。」ローマ8:28 ハレルヤ
「主を待ち望む喜び」詩篇42:1~11
私達が「喜び楽しみ・感謝の歌声」をあげる時は、現実の世界で何かが与えられた時、願いが叶った時に湧いてくるものです。しかし霊的な世界は、苦しい時も、悲しい時も、行き詰まっている時も、あらゆる場合にも「喜び楽しみ感謝の歌声」・・・。詩篇42篇から学びます。
【1】主を慕いあえぐ(:1ー2)
この詩の作者をダビデとして考えると、詩篇103篇のように「私の魂」と自分自身の内なる霊の世界に問いかけています。しかも、彼の苦しみ悲しみは、敵から「お前の神はどこにいるのか」(42:3.10)祈りに答えてくれないではないか?と問われます。神様の答えのない日々が続く中でダビデは「私の魂はあなたを慕いあえぎます」(:1)「私の魂は神を求めて渇いています」(:2)「慕いあえぐ(ア一ラグ)」「渇く(ツァ一メ一)」は『魂』の事です。神様に対して飢え渇きがもっとも強い事です。イエス様は『誰でも渇いているなら、私の元に来なさい。私を信じる者は聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』(ヨハネ7:38)『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです』(マタイ5:6)ヨハネ4章でサマリヤの女性は、真実な愛を求めて夫を5人も代え、今は同棲していますが、イエス様と話している時に『魂の渇き』に気づきます。イエス様が『魂(霊)の救い』を与えて下さるとサマリヤの女性は信じました。(ヨハネ4:21~26)※「私が与える水を飲む者は誰でも、決して渇く事がありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます」(ヨハネ4:14)
【2】主の家(教会)の集いの喜び(:1ー3)
ユダヤの3大祭り(1)過越しの祭り(2)七週の祭り(ペンテコステ)(3)仮庵の祭り(申命16:16)の中で『仮庵の祭』は、イスラエルの民が奴隷の家(エジプトから救い出され、荒野で40年間神からマナ(天からパン)と水(岩から)を与えられて、恵みと守りの中で生かされてきた事を記念して行なわれてきました。『仮庵の祭り』は秋(10月頃)に祝われた事から「農作物の収穫を感謝し秋の雨を祈る祭り」ともなりました。それでイエス様の時代の7日目の終わり(ヨハネ7:37)にシロアム(遣わされた者)の池から黄金の水差しに汲まれた水を神殿に注がれる儀式がありました。この儀式の霊的な意味をイエス様は2つの意味で教えられました。(1)「誰でも渇いているなら私(イエス様)の元に来て飲みなさい。私を信じるなら(イエス様の恵みによる救い=十字架と復活による罪の赦し、神との罪赦された新しい正しい関係に生きる命《義認=永遠の命》に生きる)その人の心の奥底から生ける水の川(聖霊)が流れるようになる」(ヨハネ7:37)「聖書が言っている通り」とはイザヤ44:3「私は潤いのない地に水を注ぎ、乾いた地に豊かな流れを注ぐ」神の祝福の約束です。(2)ヨハネ7:39で「生ける水の川」は「聖霊の事を言われたのである」イザヤ44:3での「私の霊をあなたの末に、私の祝福をあなたの子孫に注ごう」が実現したのが、なんと「七週の祭り」(ペンテコステ)でした。(使徒1:12~15)約120人の弟子達がエルサレムの屋上の間に集って(主の家の集い)祈っていた時(詩篇42:4)聖霊が、集っていた全員に注がれ『飢え渇いた心は満たされ、喜びと感謝の歌声を上げて、めいめいの国の国語で話した」(使徒2:1~8)※詩篇42篇の「飢え渇き」は、現代の私達の心の中にある苦しみ・悲しみ・悩みの罪の荒野です。この心の罪をイエス様は十字架と復活により、聖霊の注ぎをもって解決して下さいました。※私達は日曜の礼拝を通して主を喜び,感謝の歌声を上げましょう!(イザヤ49:13)
【3】主を待ち望む喜び(:5,11)
人生の敵として与えられるさまざまな苦しみ、悲しみ、悩みは、その時は耐えがたいものと思われますが、むしろ試練と共に脱出の道を備えてくださいます。彼は「敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり」(詩篇42:10)「私の涙は昼も夜も私の食べ物でした」(42:3)「私の魂は御前で絶望しています」(42:6)しかし、その信仰はゆるぐことがありませんでした。顔を上に向けて『昼には主が、恵みを施し、夜にはその歌が、私と共にあります。私の命、神への祈りが」(42:8)『わが魂よ。なぜ、お前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神を褒め讃える。私の救い。私の神を」(42:5.11)※42:8原文『主はご自身の契約に基づく神の愛を命令される』「恵み(へセド・神の愛)」を・「施し(ツァ-ワ-)」(送る、命じる、注ぐ)です。神はイエス・キリストの十字架と復活を通して聖霊を『注ぐ』事をお命じになられました。今は霊的に荒野(渇ききった心)は聖霊によって潤いのある心に満たされて『愛、喜び、平安」(ガラテヤ5:22~23)が与えられるのです。その為に祈りをもって、聖書を読み、御声を聞く、主を礼拝しましょう!
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)
「主との交わりの喜び」詩篇16篇
今年は昨年に引き続き「喜び楽しみ感謝の歌声を上げる」ことを伝えています。それはイエス様に救われた結果です。神様(イエス様・聖霊様)の救いは、一方的なあわれみ・愛です。それは悩み・苦しみ・悲しみの人生に慰め・励まし・憐れみを与えて下さるので、喜び楽しみ、感謝の歌がでてきます。今日の詩篇16篇はダビデによる詩篇です。この時代背景は、1サムエル記のダビデが、サウル王に命をねらわれ逃げていた時であると思われます。
【1】喜びの源は救い主イエス・キリストです(16:1-2) ダビデは困難、危険の中で喜びがあったのはⅠサムエル16:13で預言者サムエルによってダビデが油そそがれ、主の霊(聖霊)が下った時からです。ダビデは唯一真の神(ヤハウェ)を信じて、その信仰が揺り動く事がありませんでした。ダビデは罪を犯しましたが、主を信じ続けたのです。※現代の私達も、イエス・キリストに対する信仰が喜びの源です。イエス様の十字架の身代わりによる罪の赦し、3日目の復活による死からの解放。そして天の御国で新しい命(永遠の命)に生きること。この約束を信じ、希望に生きる事です。
【2】喜びは主を信じる者と交わる(集会)です(16:3-5)「地に住む聖徒達には威厳(栄光)があり、私の喜びは全て彼らの中にある」(別の訳)聖徒は自らを聖とする(レビ19:2)事です。それは主の言葉に従って、自らをこの世と分離して、主と結びつく事『聖別』です。「神の御心は、あなた方が聖くなる事です。…
神が私達を召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔(聖くする)を得させるためです。」(1テサロニケ4:3,7)「私達はみな…主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは聖霊なる神の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)聖別のために必要な事は(1)「ほかの神々を求めない事(16:4)(2)「主こそ私のゆずりの地、また私の杯」とする事です。(16:5)クリスチャンは「天地を創られた主(ヤハウェ)こそ自分が信じる神であって他にはいない」イエス様こそ救い主という事です。(3)「あなたは私の受ける分、あなたは堅く保って下さいます。」(16:5)これは主が運命を堅く握っている意味です。※現代イエス様を信じて、礼拝する聖徒の交わりの礼拝は、私達の杯(人生)の受ける分(運命)を堅く握る事です。礼拝の交わりは、ゆずりの地(天国)の希望を告白する、喜びの歌声を上げる時なのです。礼拝に集まる事が喜びなのです。「神の国(天国)は、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)
【3】喜びは、祈りを通して主と向き合う中にあります(16:8-11)私達が、主に出会う喜びは、聖徒達の礼拝(集会)にあります。そして「喜びは個人の祈りを通して主と向き合う中にもあります。」「私はいつも私の前に主を置いた。」(16:8)ダビデの人生は、神と目の前で向き合って、話し合っている姿です。それは祈りを通して、人生の導き、助けを願い、従った事を意味します。それが「主が私の右におられる」(16:8)というダビデの経験でした。毎日の祈りの経験を「まことに夜になると私の心が私に教える(悟す、励ます)私は助言を下さった主(聖霊様)を褒め讃える。」(16:7)『右』は信頼できる方がいつもいて『夜になる』は個人になる事。※私達が個人的な祈り(デボ一ション)を通してイエス様に向き合う中に『主を褒め讃える』(詩篇で74回使われている)人生に変えられるのです。※ ダビデは16:9の理由を16:10-11で語っています。その内容は、私達人間を心・魂・体の3つに分けて、この人間に喜び・楽しみ・平安が与えられ、揺るぐ事がない人生は『主[ヤハウェ](イエス様・聖霊)との交わり』=礼拝・祈りの生活です。
※私達の人生には生きる目標があります。それが天の御国(永遠の命・復活)です。「あなた(主イエス様)は、主を信じる聖徒(クリスチャン)を愛して墓の穴(死)を見せません。あなた(主イエス様)は、命の道(永遠の命)を知らせて下さる。それゆえ私の人生の道は、イエス様の御前には、たくさんの喜び(復数)・イエス様の右(共にいて下さる事)には、たくさんの楽しみ(復数)がいつまでも永遠にあります。」(16:10-11意訳)
※今日の礼拝を通し、または個人のデボ一ションを通して、主イエス様と出会い、喜び、楽しみ、感謝の歌声を上げましょう。
「いつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられる事です。御霊(聖霊様)を消してはいけません。」Ⅰテサロニケ5:16-18
※私たちが、イエス様の十字架と復活を通して、神様と和解し、正しい関係に(義と認められる)なり、今神様と交わりができること心から感謝しています。ですから、喜びと楽しみ、感謝の歌声があります。ハレルヤ!
「主への感謝・賛美」 詩篇100:1-5
※テーマは『主にある喜び』昨年:イザヤ51:3「主の園=喜び楽しみ.歌声」そして今年:イザヤ49:13「主の慰め=喜びの歌声」をあげる教会について学んでいます。
(1)詩篇1篇「主にある幸い」に続いて
(2)「主への感謝・賛美」詩篇100篇から学びます。
【1】主を喜ぶこと(1:1)
著者の『喜び』は『主(ヤハウェ)を知る事』
(1)知れ、主こそ神(あってある者・存在する神)100︰3
(2)主が私達を造られた(創造主なる神)100︰3
(3)主は慈しみ深い(愛なる憐れみ深い神)︰5(4)その恵みは永久まで(平安・楽しみの神)100︰5
※イエス・キリストこそ私達の礼拝する喜びです。
イエス様は私達を創造された神ご自身です。 (ヘブル1:2-3)そして私達を霊的(心と魂)を 新しく創造して下さるのです。それは罪人である私達を贖う(罪を赦し、新しく生まれ変わらせる)為です。※旧約時代の贖いの代価としての小羊のようにイエス様が身代わりとなって十字架で死んで、復活して、罪の赦しを与えて下さったからです。
※ヤハウェ(主・神)は私達を愛する為に命を与えて下さいました。『神はその独り子(イエス・キリスト)を遣わし、その方によって私達に命を得させて下さいました。ここに神の愛が私達に示されたのです。…神が私達を愛し、私達の罪の為に宥めの供え物(贖いの代価)として御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。』(1ヨハネ4:9-10)
※詩篇100:5が(結論)です。
(1)主は慈しみ深い(愛なる方)
(2)その恵みは(罪の赦しによる平安)
(3)とこしえまで (永遠の命 です。
※だから喜ぶことができるのです!!
【2】主を喜ぶ事を知った私達がする事(礼拝)
(1)主に向かって喜びの声を上げる事(1:1.4)
「感謝しつつ主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ(命令) 100:1 *主に感謝し、御名をほめたたえよ。(命令)」100:4 ※私達が喜びをもって礼拝する理由は(1)主イエス様が私達の罪の身代わりとなって (十字架と復活)贖って下さったからです。※だから賛美と感謝が湧いてきて礼拝します。
(2)主に仕える事「喜びをもって主に仕えよ。」(1:1)※旧約では、礼拝の意味は、儀式としての礼拝式がダビデの時代から始まりました。
※⑴今日の礼拝式です。
ヨハネ4:12=プロスクネオ・主の御前に頭を下げて ひざまずき、畏敬を表わします。
※⑵「喜びをもって主に仕える=ラトレイオ
・奉仕の礼拝」ローマ12:1-2のことです。
私を命まで捨てて愛して下さったイエス様に何かさせていただきたく思います。そのことが「奉仕の礼拝=ラトレイア・自分の体をもって主に仕える礼拝のこと」ローマ12:1
※⑴教会の様々な事柄に対するご奉仕があります。
※⑵公の奉仕には毎日の仕事、生活を通して主に仕えるように奉仕が与えられています。「そういうわけですから、兄弟達。私は神の憐れみのゆえに、あなた方にお願いします。あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」ローマ12:1
【3】主のものとして価値ある存在の喜び(1:3)
「私達は主のもの。主の民。その牧場の羊の群(単数)である。」「主にある喜び、平安、愛」(ガラテヤ5:22-23)は聖霊の実です。※私達の存在は、神様が創造者であります。「わたしの目(神様の目)には高価で尊い。わたし(神様)は愛している。」(イザヤ43:4)と言われる存在が私だからです。
(1)主のもの (神の所有)
(2)主の民 (神の聖なる民)
(3)主の羊の群(神の教会の群)
※このようにして現代の教会の群(単数)として存在しています。
※ここに天の御国としての存在があります。
※ルカ17:21「イエスは言われた『神の国はあなた方のただ中にあるのです。』
あなた方(教会)のただ中にあります。」
※1ペテロ2:9-10「あなた方は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなた方を、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方のすばらしい御業をあなた方が宣べ伝える為なのです。あなた方は、以前は神の民ではなかったのに今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」1ペテロ2:9-10
※⑴神様が私達を造られた。⑵イエス様が私達の罪の為に命を捨て、復活して愛された。
⑶聖霊様がその実を与えて下さった。
ここに・喜び・愛・平安があります。
※私たちが神様のものであり、神様の民であり、王である祭司で有ります。
私たちが神様との関係を真実に持つ事は、聖霊様の実を結ぶことになります。
主に感謝いたします。
「主にある幸い」詩篇1:1ー6
【1】主にある幸いは「罪が赦された人 」
(1)悪者=神の意図(御心、計画、秩序、契約)に背く事。(2)罪人=人間が神が造られた目的から外れる事。(3)嘲る者=誇り、高ぶり、自己中心、神をばかにする事。※神様を信じない人達と共に歩まない、立たない、着かない事が聖書の『主にある幸い』です。しかし私達はこの世に生きている限り、自分の好きな事をして楽しむ事が『幸せ』だと思います。聖書が教える『幸せ』は『主にある』事です。それが【人間を創造した目的】だからです。神様と愛の交わりの為に造られた人間が神様に背いた事が「本当の幸い」を失った事でした。しかし神様は、この「罪」を取り除く為にイエス様を救い主として、罪の世に遣わされました。イエス様は神様と人間を隔てる壁(罪)を打ち破る為に、十字架に身代わりとなって死んで下さり、3日目に復活しました。神様は罪人である人間と愛の交わりの関係をとり戻して下さったのです。(工ペソ2:12-22)「キリストの血(十字架と復活)によって近い者とされました。キリストこそ私達の平和(幸い)であり、2つのものを1つにし、隔ての壁を打ち壊し、敵意をご自分の肉(十字架の身代わり)において廃棄された方です、また十字架によって、神と和解させる為なのです。敵意(罪)は十字架によって終わりました。」(工ペソ2:12-16)
【2】主にある幸いは「主の教えを喜ぶ人」
主の教えを喜びとすることです。(1:2)
「私達の古い人(罪人)がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が滅び…(死んでしまった者は)罪から解放されているのです。…私達がキリストと共に(十字架につけられ)死んだのであれば、キリストと共に生きる事になります。」ローマ6:6-8 詩篇の著者は「幸いなことよ。そむきを赦され、罪を覆われた人は。幸いなことよ。主が咎(罪)をお認めにならない人は。…私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。するとあなたは、私の罪を赦して下さいました。」詩篇32:1「もし、私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し全ての悪から、私達をきよめてくださいます。」1ヨハネ1:9 ※主の教えである聖書の御言葉を信じて従う事です。それは「あなたの御言葉は、私の足のともしび(私の人生の今日1日1日を生きる食べ物として光を与えて下さいます。)私の道の光(私の将来の人生をどのように生きるかを教える指針)です。 ※私達は毎日聖書を読み、祈る生活(ディボーション)をする事によって霊的な大人へと成長していきます。
※『喜び』とは何でしょうか?それは神様が無条件で愛して、罪を赦し、今日も正しい関係を持って下さるから喜びが湧いてくるのです。「いつも主にあって喜びなさい。…何も思いわずらわないで、あらゆる場合に感謝をもって献げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人の全ての考えにまさる神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」ピリピ4:4-7
【3】主にある幸いは「水路の傍に植えられた人」
のことです。(1:3)*『水路』とは自然の川ではなく、人間が作った運河、灌漑の事です。イスラエルでは水路を作り、生活用水、農業用水として水がとても大切に使われました。その水路の傍に木(注解書:ナツメヤシ)が*人の手で『植えられ』ました。それは成長して多くの実を結びました。 ※私達は霊的にイエス・キリストが泉であり、聖霊が川の水です。(ヨハネ4:14、7:38-39、エゼキエル47章)この川の水を飲む者は、決して渇くことがありません。そして、この水(イエス・キリストの十字架と復活を教える聖霊)を飲む者は、永遠の命(神との関係が毎日新鮮です。)毎日、新鮮な関係こそ永遠の命なのです。この新鮮な関係を創り出すものが信仰なのです。信仰こそ生ける水・聖霊を飲む事です。しかし忘れてはならない事は神様が水路(イエス・キリスト)の傍に植えて下さった事です。「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。…信仰がなくては神に喜ばれる事はできません。神に近づく者は神がおられる事と、神に求める者には報いて下さる方である事を信じなければならないからです。」(ヘブル11:1、6)
※今年も主にあって喜び・楽しみ・感謝の歌声を上げましょう!! ハレルヤ !!
「神が人となられたイエス・キリスト」
ヨハネ1:14ー18、12
今年のクリスマスは、ヨハネ1章から2回目です。
(1)イエスキリストは「言葉」である神(1:1−3)
「言葉」こそ神様の創造そのものです。
(2)イエスキリストは「命」である神(1:4)
「命」は神様と人間が愛し合う関係です。
(3)イエス・キリストは「光」である神(1:4-5)
「光」は神様がイエス・キリストの光(十字架と復活)によって「闇=罪・死」に打ち勝った勝利です。※今日は、神様が人間を、罪の暗闇の世界から「救い主=イエス・キリスト」として人間の姿をとって十字架にかかり、身代わりとなって罪を赦し、3日目の復活によって新しい命=永遠の命を与えて下さった事を宣言します。それを受けるには、ただ信じるだけで神の子供とされ、罪赦され、永遠の命が与えられます。
【1】神が人となられた
イ エ ス ・キリスト(1:14)
「時が満ちて、神はご自分の御子(イエス・キリスト)を女(マリヤ)から(生まれた者、律法の下にある者として)遣わされました。」(ガラテヤ4:4)*女(マリヤ)から生まれた者=受肉し、肉体をもって贖いを成し遂げるため。*律法の下にある者=ユダヤ人の国の律法を成就するため。「私達の間に住まわれた」(1:14)「住まわれた」ギリシャ語(エスケーノ一ゼ)は「幕屋を張った」の意味です。*そして「私達はこの方の栄光を見た」(1:14)「栄光」ギリシャ語(ドクサ−)出エジプトの荒野の旅路でいつも「幕屋が張れた」 場所に、主の栄光(キシュナ-)である。※昼は雲の柱、夜は火の柱となって導かれた、神ご自身の栄光(臨在)です。(出エジプト40:34)*この旧約の神の栄光(臨在)を「見た」ギリシャ語(セア-オマイ)は「私達はたしかに、私達が実際に見た」イエス・キリストこそこの世に来られて「神として会見する幕屋をはって下さったのです。」※現代イエス様を神として信じる事は、イエス様が私達と共に住む為に、(神と会見する為に)幕屋を張って下さるのです。※この「私達と共に住む幕屋(キリストの教会)を建て上げる為に使わされた※真理の御霊(聖霊)が、現代、私達に与えられています。「その方(聖霊)はあなた方と共に住み(幕屋を張り)あなた方(教会)の内におられるからです。」(ヨハネ14:17))※未来は「神の幕屋(イエス・キリスト)が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また神ご自身が、彼らと共におられる。」(黙示21:3)場所が天国です。
【2】神が人となったイエス・キリストは恵みとまことに満ちている。(1:14)
*「恵み」ギリシャ語(カリス)=「恩寵、優しさ、愛、親切、思い…」*「まこと」ギリシャ語(アレーセイア)「真実、本当、実際、ありのまま、約束を果たす誠実、真っ直ぐな事」
※イエス様が人となって私達の間に住まわれて「私達を罪の中から救い出す為に十字架で身代わりとなって死なれ、3日目に復活されました。しかも罪人である私達が救われるのは「行ないによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのです。」(ガラテヤ2:16)※罪人である人間は律法を守る、行なう事はできません。ですから「恵みと真はイエス・キリストによって実現したのです。」(ヨハネ1:17)※旧約聖書の時代、罪の赦しを型で教えられました。それは「罪が赦されるしるしとして、小羊が祭司の前で屠られて、その血を全焼のいけにえの祭壇の角に塗り、そして残りの血全ては祭壇の土台に注がれ、そして、全てを焼きつくす事によって、祭司は贖いをする。その人の罪は赦される。」(レビ4章-5章)
※「キリストは、永遠に存在し、祭司の務めを持っています。従ってご自分によって神に近づく人々を完全に救う事ができるのです。」(ヘブル7:24-25)
※「キリストが傷のないご自身を永久の聖霊によって、神にお献げになった血は、どんなにか私達の良心をきよめて、死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする事でしょう。」(ヘブル9:14)
※イエス様の十字架と復活が罪を贖って下さいました。この罪の赦しの事実が、イエス様が恵みと真に満ちていることなのです。この福音を信じる事が救いです。「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
【3】神が人となった
イエス・キリストを信じる事が
神の子供とされる特権(1:12)
※現代、私達は良い行ないをして神に受け入れてもらおうと頑張ります。しかし、どんなに努力(修行、学び、施し、お金を献げる)しても決して良い人間になるわけではありません。聖書は「人間は生まれながらに原罪を持っているからです。」と言われます。(ローマ3:23)※イエス・キリストは、この罪(この世、闇、肉)から、罪が赦された(天上、光、霊)の人になって生きる為に、神様が人となって幕屋を張って下さったのです。この幕屋であるイエス・キリストの十字架と復活を信じる事が「神が共におられる=インマヌエル」なのです。(マタイ1:23)、そしてこの幕屋であるイエス様を信じる事によってイエス・キリストと共に幕屋に住む事が、神の子供とされる特権なのです。※「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12) ※「私達はみな、この方(イエス・キリスト)の内にある無尽蔵の富の中から、次から次へとあふれるばかりの恵みを与えていただくからです。」(ヨハネ1:16) ※「私(イエス・キリスト)が父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊(聖霊)が来る時、その御霊(聖霊)が私(イエス・キリスト)について証しします。あなた方も証しするのです。初めから私といっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26-27)
※クリスマス=それは神が人となって目に見える姿となって私達の為に※幕屋(神が共にいます=インマヌエル)を張って共に住んでくださる日なのです。その事を証しする日が、クリスマス!!です。
「ことば・いのち・光であるイエス・キリスト」
ヨハネ1:1-5、12
クリスマスを迎えるこの時、今年ヨハネ福音書からイエス様に出会った人々の救いについて学びました。クリスマスメッセージも
ヨハネ福音書からです。
【1】イエス・キリストは「ことば」である神
「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」(1:1-3) この聖句は「初めに、神が天と地を創造した。」(創世1:1)
※神が全ての存在を創造されたことから初まります。「創造=ヘブル語のバラーは、計画、意図、区別、秩序を意味する」ヨハネはこの言葉をギリシャ文化の中で「ことば(ロゴス)」としました。それは、神は初まりを「創造した」事が、意図、計画だったからです。「ことばは神と共におられた。」(1:1)「ことば」そのものが神であるとヨハネは結論づけたのです。
人間の創造の目的は、神と人間が「愛し合う、交わり合う」関係です。この関係は「ことば」としてのコミュ二ケ一ション(会話する事の本来の目的は愛する事の意味です。)
※イエス・キリストがこの世界に肉体をもって生まれた事(クリスマス)は、人間として一番大切な「ことば」をもって「私達の間に住まわれた」(1:14)のです。それは私達の罪の身代わりとなってイエス様が十字架で死なれ、3日目に甦り、罪を赦して下さるためでありました。この事実が、福音の言葉としてのイエス・キリストご自身の事なのです。
【2】イエス・キリストは「命」である神
「この方(イエス・キリスト)に命があった」(1:4)「神は実にその独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(私達)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりも滅びる事なく永遠の命を持つためである」(3:16) 「命」はただ肉体的に生きている事ではなく、人間が創られた目的である「神と愛する関係=『命』が与えられる事です。」これは神と人間の愛する信頼関係、つまり約束を守る事でした。しかし、人間がこの約束を破った事で「命」を失い「死」が入りました。(創世3章)「善悪の知識の木の実を取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世2:17)この「罪から来る、死から救い出される唯一の手段がイエス・キリストの十字架の身代わりの死と復活を通して与えられる、罪の赦し、永遠の命なのです。これこそ「神が人間を創造の時の正しい関係(義)に戻す事なのです。」
※この命を与えるのが御霊(聖霊)です。
「命を与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなた方に話した言葉は、霊であり、また命です。」(ヨハネ6:63)
【3】イエス・キリストは「光」である神
「この命は人(人々)の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれ(光)に打ち勝たなかった。」(1:4-5)「打ち勝つ」ギリシャ語=カタランバイノオは(つかまえる、克服する、理解する、悟る、解る)の意味です。※「闇」の中に光が入ると、そこには必ず「光の世界」がある。この光は「暗闇の世」に「打ち勝つ」のです。※霊的な事は、罪を犯した人間は「闇の世界に生きています。」罪という「闇」の中に「イエス・キリストの十字架と復活によって罪の赦し、体の甦り、永遠の命という救いの光が入ると、罪の暗闇の世界は消えて、光の世界を歩む人生に変えられるのです。この事を信じる事が「打ち勝つ」=「悟る事、理解する事」なのです。※「私は世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩む事がなく、命の光を持つのです。」(ヨハネ8:12)「まことに、まことに、あなた方に告げます。私(イエス様)の言葉を聞いて、私(イエス様)を遣わした方(父なる神)を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会う事がなく、死から命に移っているのです。」(ヨハネ5:24)
※今日、イエス・キリスト様を心に迎えられる事が、あなたのクリスマスの日、救いの日です!
Merry Christmas!!
「主に愛された人ベタニあのマリア」
ヨハネ12:1-8
【1】マリヤは主に愛された人
ベタニア村の3人姉弟の名前の意味
・長女マルタ「苦難の部屋・婦人」
・次女マリヤはヘブル名ミリヤム「苦難の海・愛された者」
・弟ラザロ「神は助け」
マリヤの名前が正反対の意味をもっていることに、その人の人生の意味があると思います。
※まず苦難の意味
長女マルタ(苦難の部屋)次女マリヤ(苦難の海)この言葉はこの3人姉弟の今ある状態を表していると思います。父母を亡くして3人で家を守っていかなければならない苦難であったと思います。また病気がちな弟ラザロをかかえて大変な苦難があったと思われます。(11:1)そのような時にイエス様に出会って、3人が救われます。(ルカ10:38-42)救われて3年が過ぎようとしている時、弟ラザロが亡くなります。苦難に苦難が重なります。その時、イエス様はご自身がこの世に来られた目的「イエス様が全人類の罪の身代わりとなって十字架で死に、3日目に甦り全ての人に永遠の命(新しい命)に生きる救いを与える為に来られた事」この救いをラザロの復活の奇跡を通して、ラザロ(神は助けられる)事を教えられました。
※ですから、マルタもマリヤも苦難から救われた「主から愛された人・婦人」に変えられたのです。「この方(イエス・キリスト)を受け入れた(その名を信じた)人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)のです。
【2】マリヤは御言葉を聞いて従う人
(ヨハネ12:1、3、9)※ルカ10:38-42に初めてこの姉弟の記事があります。そこにはイエス様と弟子達を迎え、接待に忙しくしている長女マルタ。それと反対に「主の足元に座って御言葉に聞き入っていた(聞き続けて終わらない状態)ルカ10:39」
マリヤがいました。イエス様がルカ9:22、9:44、18:33と3回「人の子(イエス・キリスト)は必ず多くの苦しみを受け長老、祭司長、律法学者達に捨てられ、殺され(十字架に付けられ)そして3日目に甦らねばならないのです。」という預言の御言葉を聞いていました。それで、ヨハネ12章は、イエス様が3年半の宣教活動最後の、過越の祭りの6日前です。マリヤは「イエス様が私達の罪の身代わりとなって十字架で死なれる事。そして3日目に甦る事を悟って、葬りの日の為に(12:7)ナルドの香油(没薬=死者の埋葬にも使われる香料)を主イエス様に捧げたのです。マリヤにとって弟ラザロ(神の助け)の復活の存在が人生の中でとても重大な事だったのです。(12:11)※私達が聖書を読みその御言葉に生きる事が、復活の主イエス様にお会いする事です。
「弟子達は主(復活したイエス様)を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)「見た」は(ホラオ=納得した)のです。
※私達は毎日の聖書の御言葉に聞き従いましよう。
【3】マリヤは献身者でした(ヨハネ12:3-5、9)
マリヤは苦難の海(旧約時代から海は罪を表します)の中から、イエス様の十字架と復活によって(1)罪が赦される事(2)復活の命(永遠の命)が与えられる事を信じました。
そして、新しい名前となった意味は
「神に愛された者」に変えられたのです。
※マリヤは「高価で純粋なナルドの香油(没薬)300gを取ってイエスの足に塗り、髪の毛で足をぬぐった。」(12:3)「私(イエス様)の葬りの日の為に」(12:9)
マリヤは罪から救われた喜びを、宝物としてずっと蓄えてとっておいた香油300g(3百万円~5百万円)は、足に塗ると部屋中が、香りで満ち満ちている状態でした「家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)
※献身とは「自分自身を神様に献げる事です。」この姿こそイエス・キリスト様が十字架で私達の罪の身代わりとなった事です。
そしてこの犠牲の捧げ物(レビ1章-5章)は、罪が贖われた人が神と新しい関係を持つ事ができるようになる儀式でした。 ※罪赦された罪人である私達クリスチャンは、神様と共に生きる為に、イエス様が遣わして下さる聖霊様によって喜んで仕え、献げる愛を持つ事ができるのです。「患難(苦難)が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わる事がありません。なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」 ローマ5:3-5
「主の栄光(復活の命)」 ヨハネ11:1-10
ヨハネ福音書から「イエス様に出会った人々の救い」・3章ニコデモ(社会的身分の高い地位の人の救い)と・4章サマリヤの女(社会的身分の低い人の救い)と対になっています。また・5章38年間病気の男(病気の人の救い)と9章生まれつき盲人(障害のある人の救い)と対になっています。・8章姦淫の女(犯罪人の救い)イエス・キリスト様は全ての人の救い主である事をヨハネは書いています。※第9回の「ラザロの復活」はこれら全ての人々が持っている悲しみ、苦しみ、叫び、嘆き、そして最後の死からの救いです。
【1】救い主イエス様は愛アガペのお方です。
「イエスはマルタとその姉妹(マリヤ)とラザロを愛しておられた。(11:5)「愛しておられた」アガパオは末完了「ずっと愛し続けてやまない」を表わす。「ラザロ」はヘブル名はエルアザル「神が助けである」の意味。イエス様はこの3人兄姉の家によく弟子達と泊まられました。(ルカ10:38-42)
その愛の関係は「ずっと愛し続けて終わる事のない状態です。」それは死の苦しみの中にいるラザロ(神の助け)を求める人が救われました。その愛は今も続いています。ラザロは完全に死んで4日もたって臭くなった状態からの復活=救いでした。「神は実にその独り子(イエス・キリスト)をお与えになった(お遣わしになった)ほどに世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が1人も滅びる事なく、永遠の命を持つ為である。」ヨハネ3:16「永遠の命」とは「復活の命」なのです。神様の愛(アガペー)は永遠に変わる事のない神様の命に預かって生きる命なのです。
【2】イエス様はラザロの復活を通して、永遠の命を信じて生きる事を教えられました。
ラザロは死んで4日もたっていました。(11:17)イエス様は、完全に死んでいた事を皆が知るため、4日たって墓に行かれました。それはマルタ(妹のマリヤ)の信仰を試す為でもありました。
イスラエルの民(パリサイ人)は復活を信じていました。それは、マルタの答えと同じです。「私は終わりの日の復活の時に、彼(ラザロ)が復活する事を知っています。」(11:24)イエス様の答えは「生きていて信じる者は、決して死ぬ事はありません。この事を信じますか。」マルタは答えて「はい。信じております。」(11:26)ここの「信じる」ピスティオは完了形ですから「完全に信じきって信仰が堅い事」の意味です。ヨハネ福音書では「復活」は「私達が罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)イエス様は罪の値を十字架で身代わりとなって死んで完全に支払って下さった。その支払いを完了した印が復活です。(ローマ6:4-9)「永遠の命」とは「キリストと共に生きる命です。」(ローマ6:8)イエス様が私達の罪の為に身代わりとなって十字架で死なれたのは、私達もまた「キリストと共に十字架に付けられ罪の奴隷から解放される為でした。私達がキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きる事になる。」(ローマ6:6-8)※大切なこと。ラザロの死は「罪のため死んだ者」(6:11)全ての人が必ず「罪から来る報酬は死です。」(6:23)を肉体的に経験します。しかしキリストの復活の命に預かる(信じる)者はイエス・キリスト様の復活の命に生きる者として死ぬことはないのです。
※神の下さる賜物としてイエス・キリストにある永遠の命なのです。ラザロは(神の助け)によって生かされ続けるのです。※イエス・キリストを信じる信仰によって生きるのです。(エペソ2:20)
【3】イエス様の救いは神の栄光を表すこと。「永遠の命とは、唯一真の神であるあなたとあなたが遣わされたイエス・キリストを知る事です。」
あなた(父なる神)が私(イエス様)に行なわせる為に、お与えになった業(十字架と復活)を私(イエス様)は成し遂げて、地上であなた(父なる神)の栄光を表しました。」ヨハネ17:3-4
「栄光=ギリシャ語ドクサ−(ヘブル語はタボト(キシュナ一)=神の臨在の輝き」 ※この「栄光の輝き」はイエス様が十字架で私達の罪を贖い、3日目の復活によって死を滅ぼし勝利した栄光の輝きです。※このイエス様の十字架と復活の業を「自分の罪の身代わりであった十字架。私が復活の体と永遠の命に預かる事ができる復活。このイエス・キリスト様の業を信じる信仰によって生きることを教え、導いて下さるお方が聖霊様なのです。「もし、肉(律法による行ない)に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。しかし、もし御霊(聖霊によって、体の行ない=律法の行ない)を殺すなら、あなた方は生きるのです。神の御霊(聖霊)に導かれる人は、誰でも神の子供です。」ローマ8:13-14
※聖霊によって生きる事は「イエス・キリストを死者の中から導き出された平和の神が…全ての良い事について、あなた方を完全な者として下さいますように。どうかキリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」ヘブル13:20-21
この祈りの中に生きることです。※ラザロ(神が助け主である)の復活は、イエス様が遣わされた聖霊によって復活の命に預かったことです。=この事が「生きていて死ぬ事がない(11:26)永遠に生きた者(永遠の命)となったのです。※私達も聖霊によって復活の主イエス様を信じる信仰によって生きて行きましょう。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17
「主の赦し」ヨハネ8:1~12
イエス様に出会った人々の第8回は「姦淫の女の救い」8章はモーセ十戒の「姦淫してはならない」の罪からの救いであります。
【1】全ての人は罪を犯している罪人
「姦淫罪で捕らえられた女」は罪人として裁かれます。(レビ20:10)この「姦淫の罪」を旧約聖書から適用すると。夫=主なる神・妻=イスラエル、が婚姻関係にありました。しかし、妻であるイスラエルが、他の神々を礼拝する事によって「姦淫を犯す」事の罪(ホセア4:12)を意味します。この物語は「姦淫の女」であるイスラエルの『罪を赦す』お方は主イエス・キリスト様以外にはいない事を教える具体的な実話となっています。※現代の私達も「全て人は、罪を犯して、神からの栄誉を受ける事ができない」状態にあります。(ローマ3:23創世3:7)私達人間は、神様の創造の時から「神を知る(求める)」を魂の中に入れられています。しかし「彼ら(人間)は神を知っていながら、その神を神として崇めず、感謝もせず、その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ1:21)※「生まれつき盲人」がイエス様に目を開けてもらいました。彼はイエス様が罪からの救い主と知る(求めて悟る)と「主よ。私は信じます。」(9:38)そして主を拝した。(礼拝しました)この罪の赦しが『霊的な目の開眼』という事です。イエス様はイスラエル民(律法学者・パリサイ人)に対してこう言われました。「しかし、あなた方は今『私達は目が見える』と言っています。あなた方の罪は残るのです。」(9:41)イエス様を信じる事が、罪が赦されることです。※私達は生まれながらの罪人です。イエス様が私達の罪の身代わりとなって十字架に死んで(罪の赦し)そして3日目の復活によって目が開かれて、新しい霊的な命・永遠の命(神を見る)の世界に入れられました。ですから、聖書が言われる「姦淫の女の罪」は、霊的に私達を造られた神様(夫)と、造られた人間(妻)の関係が夫婦であったにもかかわらず、他の信じるものができて、そちらに思いを寄せる事。または自分の考えが神様の考えより優先する事。これが姦淫です。ですから、神様の基に帰る事が、イエス様を信じて、神様と関係を回復する事、持つこと、目が開かれる事です。この正しい関係(夫婦関係)に戻る事が救いです。※これをパウロは『義と認められる』関係と言ってます。「神の恵みによりキリスト・イエスにある贖いのゆえに価なしに義と認められるのです。」ローマ3:24
【2】罪を裁く主イエス・キリスト
「誠に、誠に、あなた方に告げます。私の言葉を聞いて私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会う事がなく、死から命に移っているのです。」(ヨハネ5:24-29)罪(ハマルティア=的はずれ、本来の目的から離れる事です。※神に創造された人間は本来、神を崇める、礼拝する存在でした。しかし罪を犯した(善悪の知識の実を取って食べてはならないと言われた約束をやぶって食べてしまった)人間は「神からの栄誉を受けることができなくなってしまいました。」(ローマ3:23)その裁きとは死です。(創世2:17)「罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は主キリスト・イエスにある永遠の命です。」(ローマ6:23)この「罪の赦し」こそ姦淫の女が一方的に主イエス様が「私(イエス様)もあなたを罪に定めない。(罪の裁きをしない)」(8:11)と言われる言葉によるのです。※イスラエル(律法学者・パリサイ人)が「姦淫の女」の罪の取り扱いに対して、イエス様を試す(罠に駆ける)ために連れて来られました。(1)もし姦淫の女をイスラエルの律法により石打ちにせよ(申命22:22)と答えれば、ローマ法律を無視してローマ政府から捕えられます。(2)もし石打ちにするなと答えれば、イスラエル律法を無視して、イスラエル民族から捕えられます。ですから、その答えは「あなた方のうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。」(8:7)とイエス様は言われました。すると年長者から出て行って誰もいなくなりました。(8:9)
※真の裁き主(裁判官)はイエス様です。しかしこの裁きは、イエス様の一方的な「罪の赦し」です。「姦淫の女」は罪を認めて悔い改めました。ですから新しい「赦された罪人」として生まれ変わって生きていけるのです。「神の子(イエス・キリスト)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)
【3】主イエス・キリストは赦し主(救い主)
ヨハネ福音書のテーマ「これらの事が書かれたのは(1)イエスが神の子キリスト(メシア)である事を、あなた方が信じる為(2)また信じて、イエスの御名によって永遠の命を得るためである。」(20:31)《1》姦淫の女は自分の罪を認めています。「女はそのままそこにいた。」(8:4)そこから逃げなかった。《2》姦淫の女は新しい命に生きる決心をします。「私(イエス様)は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩む事がなく、命の光を持つのです。」(8:12)《3》姦淫の女はイエス様の宣言を信じました。「私もあなたを罪に定めない。」(罪の裁きはしない=赦し)(8:10)これら全てを教えて下さる方が『聖霊様』です。ですから、イエス様は言われました。※ 「イエスは息を吹きかけて言われました。『聖霊を受けなさい。』あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)※私達が救われて「罪の赦し」「体の甦り」「永遠の命」を得ています。確かに、霊的『姦淫の女』であった私達は、その罪が赦されて、また神様との正しい関係(義と認められた)を持つ事ができるようになりました。「私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達をきよめて下さいます。」(1ヨハネ1:9)
イエス様が私達の罪を赦して下さった事を感謝しましょう。イエス様を喜び楽しみ、感謝の歌声(賛美)をあげましょう!!
今年のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ福音書から、イエス様に出会った人について学びたいと思います。第5回38年間病気の男の癒やしです。
「38年間病気の男の癒やし」(死から命へ)ヨハネ5:1-16
【1】イエス様は失われた人を捜し救う方
38年間の病気の男は、イスラエルの民の罪からの救いです。イスラエルの民が、エジプトの奴隷のくびきから解放され、約束の地カナン(低い、へりくだる、服従する)に入る事が目的でした。
イスラエルの民がカナンの地に偵察に行って見たものは、自分達より強い民族が住んでいて、偵察隊は戦うのを恐れてカナン征服をあきらめました。それで神様は、偵察した40日間を40年とされ、荒野でさまよわせました。(民数14:34)そして、20代以上の人々は荒野で亡くなり、荒野で生まれた新しい世代になりました。この荒野の旅路が38年でした。(申命2:14)「主よ。私には水がかき回された時、池(ベテスダ=あわれみの家、恵みの家)に入れてくれる人がいません。行きかけるともう、ほかの人が先に降りて行くのです。」38年病気の男の人はイスラエルの民の罪の例です。このイスラエルの民の救いが、38年の病気の男の救いなのです。「イスラエル人は大声で泣いて言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていた事を思い出す。きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも、だが今や私達ののどは干からびてしまった。』(民数11:4-6)イエス様は『よくなりたいか』と問います。神様に素直に『良くなりたりです』と信仰を告白すべきでした。しかし彼の答えはつぶやきでした。(ヨハネ5:7)
イエス様のメッセージは『起きて、床を取り上げて、歩きなさい。』ヨハネ5:8「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私達の主キリストイエスにある永遠の命です。」(ローマ6:23)
『死から永遠の命』移す愛の言葉です。
【2】主イエス様の愛による癒やし
この男の人は自分が癒やされない理由を他人のせいにする、批判、自己中心、責任転嫁の罪を持った38年間病気の男でした。
(イスラエルの民も同じ罪です)イエス様はこの人を、わざわざ捜してベテスダ(あわれみの家・恵みの家)にやって来て、自らが「あわれみ深い愛の家の人ベテスダ」として38年間病気の男の人を癒やされるのです。「ここに神の愛があるのです。」(1ヨハネ4:16)イエス様は彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(5:8)この言われた事は全て38年間の病気で出来なかった事です。しかし、イエス様の言葉には力があります。(ヘブル4:12)この人が、批判、自分中心、責任転嫁の罪に縛り付けられていた床から(1)「起き上がりなさい。(飛び起きよ。ぬけでよ。)」と言われ(2)「床を取り上げなさい。(きっぱりと取り上げよ。=もう絶対に後ろを振り向くな。)」(3)「歩きなさい(自分自身で主体的に歩き回り続けてやめない。)」と訳す事ができます。この神の言葉の力を信じる事によって癒やされました。
※私達も、批判、自己中心、責任転嫁の罪から解放されるのは、ただイエス・キリストの十字架と復活による一方的な赦しの救いによります。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が、この世に生きているのは、私を愛し私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
※現代も神様はイエスキリストの賜物、恵みによって、哀れみの家に私達を招き入れて下さったのです。「あなた方は、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出た事ではなく、神からの賜物です。」
(エペソ2:8)「私の口から出る私の言葉も、むなしく、私のところに帰っては来ない。必ず、私の望む事を成し遂げ、私の言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)神様の言葉は、望むことを成し遂げてくださるのです!
【3】イエス様は安息日の主です。 ユダヤ人民衆は癒された男の人を見て
「床を取り上げてはいけない。」と反対します。理由は「安息日」だからです。(安息日は「床を取り上げる仕事をしてはいけない。」という律法違反になるからです。イエス様は「安息日」が設けられた本当の意味は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子(イエス・キリスト)は安息日の主です。」(マルコ2:27-28)神が十戒の第4戒に「安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ。」その理由は(1)天地創造を6日で行ない7日目を休まれて神は祝福し、聖なるものと宣言されたからです。(出エジプト20:8-11)(2)神が奴隷の地エジプトから連れ出されたことを覚えることでした。(申命5:15)この2つはイエス・キリストが十字架と復活によって成就しました。※(1)私達を罪の奴隷から解放してくださったこと(2)私達が罪から救われて聖なる者とされ祝福してくださっていることが、安息日の本当の意味であります。この事を38年間罪の病気の中で苦しんでいたこの男の人が経験することだったのです。※ 現代の私達は、安息日を主イエス・キリスト様が復活して救いの御業が完成した日曜日に記念として礼拝をささげています。
『主日礼拝』こそ(1)私達はイエス様に罪が赦され解放された日(2)私達は神様の前でイエス様によって聖なる者(義と認められた者)とされたという祝福を受ける特別な日としてお祝いの祭りをしようではありませんか。イエス・キリスト様の救いこそ癒やしの喜び楽しみ・感謝と歌声です !! マタイ11:28では
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私(イエスキリスト)のところに来なさい。私(イエスキリスト)があなたがたを休ませてあげます。」
「救い主を見る」 ヨハネ9:1-7
ヨハネ福音書から「イエス様に出会った人々」の第7回は「生まれつき盲人の癒やし」です。ヨハネは・3章ニコデモ(高い地位の人)の救い・4章サマリヤの女(社会的身分の低い人)の救い・5章38年間病気の男(病気)の救い・9章生まれつき盲人(障害者)の救いの対比である。
(目的)イエス様は生まれつき盲人の目を開けて罪によって神様を見る事のできなかった霊的盲人が目が開かれて、救い主なる神を見る事ができ喜びと感謝が生まれる礼拝が与えられる事を学びます。
【1】聖霊によって目が開かれる。
1コリント12:3「聖霊によらなければ誰も『イエスは主です』と言う(告白)する事はできません。」盲人はヨハネ9:11でイエス様の御言葉に従います。(1)行って(2)洗う(3)見えるようになりました。ヨハネ9:35-38でイエス様は、シロアムの池(遣わされた者=イエス・キリスト)の所に行って洗う(十字架と復活による罪の赦しの福音による)と「あなた(盲人)はその方(人の子・イエス・キリスト救い主)を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」(9:37)目が開いた盲人は「主よ。私は信じます。」(9:38)と答えます。※盲人はいつも罪人呼ばわりされていました。(9:2)「罪を犯した結果が盲人に生まれた」という迷信が当時ありました。しかしイエス様は「神の業がこの人に現われるためです」(9:3)と答えます。イエス様は「あなた(神)が私に行わせる為にお与えになった『わざ』をわたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。」ヨハネ17:4「今、彼らはあなた(神)が私に下さったものはみな、あなた(神)から出ていることを知っています。(17:7)…彼らはそれを受け入れ、私があなた(神)から出て来た事を確かに知り、あなた(神)が私を遣わされた(シロアムの池)ことを信じました」(17:8)
※盲人が罪人である事を悔い改め、イエス・キリストが罪の世界から光の世界へ『私は世の光です。私に従う者は決してやみの中を歩む事がなく命の光を持つのです。』(ヨハネ8:12)招き入れられたのです。「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、私を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒26:18
【2】イエス様の救いの方向性
イエス様が盲人をいやした日も「安息日」9:14でした。パリサイ人(律法学者)はモーセ律法を守る事によって罪が赦され義と認められました。「私達はモーセの弟子だ」9:28 パリサイ人の方向性は人間(この世の世界・暗闇・罪)が自分の行ないによって救われる事を自証していました。しかし「人は律法の行ないによっては義と認められません。ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるのです。」ガラテヤ2:16 ※私達人間はどんな人でも罪人です。「全ての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない。」ローマ3:23 ※盲人の方向性は、人間の行ないによっては霊的な開眼はない事を知っていました。ですから盲人は救い主イエス様に霊的な目を向けたのです。「モーセの書(律法)が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおい(自己中心)が掛けられているのです。人が主に向くなら、そのおおい(自己中心)は取り除かれるのです。(自己中心の罪から解放されるのです)主は御霊です。御霊のある所には自由(罪の赦し・解放)があります。(Ⅱコリント3:9-18)※私達は皆、顔のおおい(自己中心の罪)を取りのけられて、鏡のように主の栄光(ローマ3:24)を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えて行きます。これは御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:15-18 ※聖霊が自己中心の方向性から神中心の方向性へと変える力があるのです。そのために大切な事は御言葉と祈りです。(1)「御霊の与える剣である神の言葉」(2)「どんな時にも御霊によって祈りなさい」エペソ6:17-18
【3】神の御霊による礼拝
パウロは優秀なパリサイ人でした。しかしこの人間的なものを頼りにしていた時は、彼にとって盲目だったのです。(ピリピ3:3-8)しかし、イエス様の方から霊的盲目であったパウロに近づいて(ヨハネ9章の盲人のように)声をかけます。「サウロ(パウロ)なぜわたしを迫害するのか。」パウロは答えます。「主よ。あなたはどなたですか。」イエス様は「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:4-5)そしてパウロの目は見えなくなります。(彼にとって人間的なものを頼りにしていた目が見えなくなったのです。)パウロは「目が開いていても何も見えなかった。」(9:8)それからパウロは3日間「彼は祈っていました」(9:11)するとダマスコの弟子であったアナニヤがパウロに手を置いて主イエス様の言葉を伝えると聖霊に満たされてパウロの目からうろこのような物が落ちて(顔のおおい・自己中心の罪)目が見えるようになり(9:17ー18)
そしてすぐパウロは洗礼を受け、元気になりました。※私達も主イエス様によって「聖霊によって礼拝する者」となりました。イエス様が私の罪(自己中心で神に背をむけていた者がイエス様に顔を向けること=神中心の生活・悔い改めて方向転換をする。そしてイエス・キリスト様が私の自分勝手なことをする罪の身代わりとなって十字架で死なれたこと、そして3日目に
復活して、新しく神中心に生きるように、聖霊による新しい命、神との正しい関係に生きる義人)としてくださいました。ここに、
神様の憐れみの愛があるのです。(1ヨハネ4:10)
「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びる事なく永遠の命を持つためである。」ヨハネ3:16
「生ける水を飲む」ヨハネ4:1-42
【1】イエス様はどんな人も愛される方
4:4「サマリヤを通って行かなければならた。」ユダヤからガリラヤに行くには2通りありました。(1)近道である真ん中、サマリヤを通って行く道(2)ユダヤ人はサマリヤ(歴史的に同じ民族でありましたが、北イスラエルがアッシリヤに征服されて異邦人と結婚し、異教の神々を信じるようになり、汚れているとして交わらなくなった。)を通らず、ヨルダン川の東側を通って行き、ガリラヤ近くでヨルダン川を渡って行く道です。イエス様は、わざわざ『嫌われるような道を通りました。』それは4:5-18「スカル町のヤコブの井戸に昼12時頃『夫を5人替え、今は夫でない男と同棲しているサマリヤの女性に会う為でした。《なんのためにでしょうか?》人生の目的を見失った人が、神様に救いを求めている事を知って、ご自分が本当の救い主である事を教える為に出かけられました。神様の『必然性』「サマリヤを通って行かなければならなかった。」ギリシャ語(デイ)は「必ず〜しなければならない」つまり、人間には偶然と思える事が、神様にとっては『必ずしなければならない事であったのです。」(銘形秀則師)※ルカ19:10ではザアカイが救われる者、サマリヤの女性と同じようにザアカイを救う為に(デイ)が使われています。「泊まらなければならない。」(19:5)必然性でした。「人の子(イエス・キリスト)は失なわれた人を捜して救う為に来たのです。」(19:10)
※ 現在の私の救いもイエス様が私の為に救い主となられた愛の結果です。感謝します!
【2】イエス様の救いは霊的なことです。 救いは肉(体)的な事ではなく霊的な事です。「神は霊です。彼(神)を礼拝する者たちは霊(聖霊)の中に、そして真理(神の真実)の中に必ず礼拝しなければなりません。」(私訳)
ここで(デイ)が使われて、イエス様が言われる「礼拝」プロスクネオは、(神に向かって顔と顔を向き合わせて平伏(地面に両手をつけて頭をさげて礼をする事)して敬意を表わすことです。
※サマリヤの女性は肉体的に生きる為に、飲む水を求めていました。しかし人間が生きる為に必要な事は、神様に礼拝する事でした。この事にサマリヤの女性が気が付いたのは、イエス様が「今、あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。」(4:18)と指摘されたからです。それは結婚という律法を犯す罪でした。イエス様はその罪から解放する為に、ここに来て下さいました。そして、顔と顔を向き合わせて礼拝(プロスクネオ)したのです。
(4:19-26)
※イエス・キリスト様に罪を赦してもらう事
(イエス・キリスト様の身代わりの十字架と3日目の復活の保証の事実=真実)を助け主?聖霊様(14:16)によって信じる事ができるのです。※「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、1人として滅びることなく、永遠の命(神の真実と聖霊の働き)を持つ為である。」
(ヨハネ3:16)
【3】イエス様の救いは聖霊の働きです。
ヨハネ7:37-39「誰でも渇いているなら
(サマリヤの女性は心に霊的に罪からの救いを求めていた。)
わたし(イエス様)のもとに来て飲みなさい。(サマリヤの女性は、イエス様に求めました。そしてイエス様の言葉を飲んだ=信じたのです。)
わたし(イエス様)を信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から生ける水の川(聖霊の働きによるイエス様の十字架と復活による罪の赦しと復活の永遠の命)が流れ出るようになる。
(イエス様を信じる事によって、聖霊による愛と喜びと平安が与えられます。)」
※イエス・キリストを信じる事によって「生ける水(聖霊)」の働きが与えられます。「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、様々の情欲や欲望と共に、十字架につけてしまったのです。もし私達が御霊に導かれて生きているなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)
《まとめ》
サマリヤの女性が夫を替え続けた事は、何か満たされなくてした事かもしれません。(心理学の代償行為)しかし、その行為が自分の中にある罪の問題と向き合う事になり、イエス様との会話によって本当の救い主に会いました。※現代の私達は聖書を読み、教会で説教を聞き、祈る事によって、その罪の解決ができます。(イエス・キリストの十字架による罪の赦し、3日目の復活によって新しく生まれる霊(聖霊)が与えられます。この福音を信じる、
信仰によって生きる! これが
『生ける水(聖霊)』を
飲んで生きる事です。
神様と私との愛する関係が
『永遠の命』です。
「そして、こう言われると、彼らに息を吹き かけて言われた。『聖霊を受けなさい』」 ヨハネ20:22
「新しく生まれる」
今年のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ福音書から、イエス様に出会った人について学びたいと思います。第3回はニコデモです。
【1】ニコデモについて
= 勝 利 の 民 の 意味
ヨハネ福音書には
3:1-9、7:50、19:39に登場。
(1)パリサイ人(3:1)でした。ユダヤ教の厳格なグループ。トーラー(律法)を一生涯守り抜くと神に誓約を立てた人。旧約聖書は教理として信じている。死者の復活はあると信じる人です。(2)ユダヤ人の指導者。サンへドリン議員(7:50)教師でした。(3:10)学識と教養、地位と名誉がありました。(3:3)老年でした。(3:4)人生経験の豊かな年となり、色々な事を行なってきた円熟した人でした。
※この世でどんなに教養があり地位があり、名誉があり、円熟した素晴らしい人であっても天の御国(天国)に入る為にはイエス・キリストを求め、捜し、たたき続けなければなりません。ヨハネ19:38-42では、イエス様を埋葬する為に、高価な没薬とアロエを混ぜ合わせた香料30Kg(数十万円もする物)を用いて、人目をはばかる事なく行ないました。イエス様を公に信じている事の表明であり、証しです。
パウロも同じくピリピ3:12
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです。」と表明しています。
【2】ニコデモの夜について
( 3 : 2 、 1 9 : 3 9 )
※夜=ギリシャ語ヌクトオス
(夜、夜の中に、夜の内に)
「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私達は、あなたが神のもとから来られた教師である事を知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、誰も行なう事ができません。』」3:2
※なぜ夜に訪問したのでしようか?
この当時、イエス様はユダヤ教から見たら、
異端視されていました。ですから、ニコデモがイエス様のもとを尋ねるには、人目を気にして夜でなければならなかったと思います。しかし、夜は象徴的な言葉です、夜=暗闇に対してイエス様は昼=光です。サタンとイエス=死と命。この対立が
ヨハネ福音書の特徴です。「この方に命があった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
夜=死・罪・(サタン)この世の象徴です。
この夜=罪・死に打ち勝つ為にイエス・キリストはこの世に遣わされ(生まれ)十字架に身代わりとなり罪を赦し、3日目の復活によって死に打ち勝たれました。
この事(福音)を信じる事によって死から命に移っているのです。」(ヨハネ5:24) ※「あなた方は皆、光の子供、昼の子供だからです。私達は、夜や暗闇の者ではありません。ですから、他の人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(1テサロニケ5:5-6)
慎み深く(グレゴロウ)=目を覚まして、見張りをする、油断なく警戒するの意味
(マタイ25:13賢い娘と愚かな娘の譬えは聖霊の満たしを意味します。
※マタイ26:38-46ゲッセマネの祈りは、弟子達に目を覚まして祈り続ける事を意味します。
※天の御国(天国)は夜(暗闇)のない光の世界(イエス・キリストの光の世界です。)
「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らには灯火の光も、太陽の光もいらない。彼らは永遠に王国である。」(黙示22:5)
※天の御国に行く為に大切な事は、聖霊様に満たされて生まれた者は夜(暗闇)の世界に陥らないように祈り続ける事。イエス・キリストの御言葉に留まり続ける事。
ぶどうの木である教会に留まり続ける事です。
【3】新しく生まれる(3:5、8)
「水と御霊(聖霊様)によって生まれなければ、神の国に入る事はできません。」水と御霊を「新しく生まれる」儀式(洗礼)になぞらえています。
2つで1つの事を表しています。
≪バプテスマ・洗礼≫は、水に浸かる(沈む)ことによって古い罪の自分に死ぬ(葬られる)ことです。:御霊(聖霊様)によって復活したイエス・キリストの御霊を受ける事です。(ヨハネ20:22)
「水(洗礼)と御霊(聖霊)によって
新しく生まれる事が出来ます。
「私達が神の子供である事は、聖霊様ご自身が私達の霊と共に、証しして下さいます。」(ローマ8:16)ですから
「神は、実に、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、1人として滅びる事なく、永遠の命を持っ為である。」(ヨハネ3:16)
※この御言葉によってイエス・キリストを信じる事が出来る者は、聖霊様によって永遠の命(神様と共に住む・インマヌエルの天の御国・神の国)に入る事がもうすでにできているのです。「まことに、まことに、あなた方に告げます。私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会う事がなく、死から命に移っているのです。」 ヨハネ5:24
「主イエス・キリスト様を見る(お会いする)ヨハネ1:43~51 今年のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ福音書から、イエス様に出会った人について学びたいと思います。
第3回はナタナエルです。
【1】ナタナエルについて
(1)ナタナエルの意味「ナータン」(彼は与える)+「エル」(神)=神は与える、神の賜物。別名はバルトロマイ(トルマイの子:マタイ10:3)を、 ピリポと一緒にして書いています。(2)彼はカナの出身(ヨハネ21:2)でピリポと仲良しだったのでしょう。ピリポがイエス様に「わたしに従って来なさい。」(1:43)と召されました。
その後、すぐにピリポはナタナエルを見つけて(ギリシャ語ヒエリスコオ:抜く、見つけ出す)イエス様の元に連れて行きます。イエス様の評価は『彼の内には偽りがない』(1:47)と言います。確かにナタナエルは「いちじくの木の下にいるのを見た。」1:48とイエス様は言われた。その理由は、イスラエルの習慣に木の下で礼拝したり、 黙想したりしました。(創世12:6、18、21:33)それでナタナエルは、イエス様を見るなり「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」1:49と告白しました。このイエス様を信じる告白は「ナタナエル(あなたは)これより大いなる事を見るでしょう。」1:50イエス様は約束なさいます。(創世記28:12ヤコブが見た天使のはしごの夢)「まことに、まことにあなた方に告げます。天が開けて、御使い達が人の子(イエス・キリスト)の上を上り下りするのをあなた方は今に見ます。」(1:51)
※イエス様の語られる説教が神様からのものであることを理解しました。
( 6:38-39、創世28:12)
(3)ナタナエルは12弟子の1人です。(マタイ10:3)彼はイエス様が十字架で死んで3日目に復活したイエス様にエルサレムでお会いしました。(21:19-29)そして、ガリラヤ湖のテベリヤ湖畔に漁にもどった7人の弟子の1人がナタナエルでした。ルカ5:1ー11召命を受けた出来事3年半前に召された場所で漁をしましたが、同じく何も取れませんでした。復活したイエス様がまた「網をおろしなさい。そうすれば取れます。」 すると、おびただしい魚が取れました。(21:5-6)そして皆でイエス様が用意された朝食を食べた後に、 イエス様とペテロとの会話を聞きました。(21:1-25) 「わたし(イエス様)を愛すること。わたし(イエス様)に従うこと。」でした。※ナタナエルは「神が与えられた賜物」をいかして (1)まずイエス様の天からの声を聞くことでした。私達も聖書と説教に聞く事です。(2)イエス様を愛し、従い続けることでした。
※私達もイエス様の体である教会にあって、イエス様を愛し従い続けて行きましょう。
【2】ヨハネ福音書のギリシャ語の
4つの見るについて
(1)ブレポオ(ただながめる、普通に外を見る)ヨハネ17回
(2)セアオマイ(じっくり観察する、劇を見る)ヨハネ7回
(3)ヒエリスコオ(見抜く、見い出す、捜して見つける)ヨハネ20回
(4)ホラオ(納得する、識別、洞察力で見る、見る事によって理解する、わかること、) ヨハネ41回
※ヨハネはこの4つの言葉を、神を信じることの段階に使い分けています。
(1)洗礼者ヨハネは、イエスが来られるのを見て(ブレポオ=普通に見て)言った。『見よ(ホラオ=納得して)世の罪を取り除く神の小羊』1:29と宣言する。
(2)イエスは振り向いて、彼ら(アンデレとヨハネ福音書を書いたヨハネ)がついて来るのを見て(セアオマイ=じっくり観察して)言われた。
「あなた方は私(イエス)に何を求めているのですか?」1:38求道信を見ました。
(3)彼(アンデレ)は自分の兄弟シモン(ペテロ)を見つけて(匕エリスコオ=信仰 があるのを見抜いて)「私達は
メシア(キリスト・救い主)に会った。
(ヒエリスコオ=救い主を信じ理解・見抜くことができました。)(1:31)
(4)イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て(ホラオ=救い主を信じる
理解を見抜いていた)のです。(1:47)ナタナエルは答えた。
「先生、あなたは(イエス・キリスト)神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 と信仰告白をしました。 (1:49)
※私達の信仰は(1)ただ見るだけ(ブレポオ)から(2)じっくり観察(セアオマイ)して(3)救い主が
イエス・キリスト様と見抜き理解(ヒ工リスコオ)することによって(4)あなた(イエス・キリスト様)は神の子・
イスラエルの王•救い主、と見る
(ホラオ=納得し)信仰告白ができます。
※ 生まれつき盲人の回心 (ヨハネ9:1ー41)
イエス様は盲人は目が見えるように癒され後、本当ならばユダヤ人社会に戻ってから、普通に生活できました。しかし、イエス様を信じた事によりユダヤ人社会追放されてしまいました。イエス様はこの癒された盲人を見つけ出して(ヒエリスコオ)9:35言われます。「あなたは人の子を信じますか。」癒された盲人は「私はその歌を信じます。」と答えました。イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見た(ホラオ=納得する)のです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。わたしは信じます。」そして彼はイエスを礼拝した。(9:35ー38)
2、パウロの回心(使徒22:12ー18)
同じように使われます。
【3】私達が信仰を持つ為に必要な事
※ナタナエル(神の賜物)の意味は、聖霊が与えられる事を見る(理解する事)でした。(1:33-34)
※洗礼者ヨハネは「水でバプテスマを授ける為に私を遣わした方(父なる神様)が私(洗礼者ヨハネ)に言われました。『聖霊がある方(イエス・キリスト)の上に下って、その上にとどまるのがあなたに見えたなら(ホラオ=理解し納得する)その方(イエス・キリスト)こそ聖霊によってバプテスマを授ける方である』私(洗礼者ヨハネ)はそれを見た。(ホラオ=理解し納得した)のです。それで、この方(イエス・キリスト)が神の子であると証言しているのです。」(1:33-34)
※この約束の言葉はイエス様が私達の罪の為に、十字架で身代わりとなって罪を赦し、3日目に復活して、復活の希望を保証するためにこう言われました。「彼ら(弟子達)に息(聖霊)を吹きかけて言われました。『聖霊を受けなさい』(20:22)そして、この事があって50日後のペンテコステの日に、祈り待ち望んでいた約120人の弟子たち(12弟子のナタナエルを含む)に聖霊のバプテスマ(受けること)ができました。そして、ここから、弟子達は全世界の福音宣教に遣わされました。
※ナタナエル(神の賜物)として活躍することは、イエス・キリスト様から聖霊様をいただくことでした。(1)それは、聖霊様が福音を宣べ伝える伝える力を与えてくださるからです。イエス様の十字架による罪の赦しと3日目の復活によって信じる者に新しい復活の命が与えてられる福音を伝える力です。(2)それは、聖霊様は、聖霊の実をである(ガラテヤ5:22ー23)《愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制》結ばせて下さるからです。(3)それは、祈りにおける聖霊の助けです。
(ヨハネ14:14ー16、)
※祈りこそ、愛による宣教の働きです。
※ 私達は一方的にイエス様に愛されています。だから私達もイエス様を愛する事を求め続けます。(ルカ10:9-13) そうすれば、賜物としての聖霊は豊かに与えられます。
「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」エペソ 5:18-21
※聖霊の賜物をいただく時、楽しみと喜び・感謝と歌声があります!!
(イザヤ51:4)
「イエス様について行く」
ヨハネ1:35-42
今年のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ福音書から、イエス様に出会った人について学びたいと思います。第2はアンデレです。
【1】アンデレについて アンデレ名前の意味(男らしい)です。兄シモン(ペテロ)と弟アンデレは兄弟で力ペナムで漁師をしていました。ヨハネ1:35-42ではアンデレはバプテスマのヨハネから救い主について教えられていました。そして洗礼者ヨハネに言われてイエス様に会いに行きます。
そしてイエス様を救い主メシアと信じます。①そしてすぐ兄弟シモンにイエス様を紹介します。そして、ペテロも
イエス様を信じて名前にあだ名がつきます。ケパ=ペテロ(岩)と呼ばれるようになります。家族伝道をしました。②また、イエス様は力ペナムの漁師ペテロとアンデレ、そしてピリポとナタナエル、ヤコブとヨハネを弟子として召されます。のちに12弟子のメンバーとなります。(マルコ1:16-18)③またアンデレは男子およそ5000人の給食の時、5つのパンと2匹の魚を持っていた少年をイエス様の所に連れて行きました。するとこの少年の弁当からイエス様の奇跡によって5000人以上、いや1万人以上の人々を給食することができたのです。(ヨハネ6:8-9)
④ また、アンデレは過越の祭に来た
ギリシャ人(異邦人)の幾人かにイエス様を紹介しました。(ヨハネ12:21-22)⑤そして、アンデレは、イエス様が復活にお会いしました。そして40日後イエス様昇天後、約120人ほどの弟子たちがエルサレムの屋上の間で10日間祈りに専念した中にも12弟子の1人としてアンデレがいました。
聖書の中からわかるアンデレは目立たない人物ですが、とても忠実で大事な時によく機転をきかせて、人々の役にたつ仕事をしています。
※私達も目立たない奉仕であっても、忠実に人々の役に立ち主イエス様の役に立つ者なのです。
【2】救い主を求める(1:31、39)「ふたりの弟子(アンデレとヨハネ)は彼(洗礼者ヨハネ)の言うことを聞いてイエスについて行った。」
「来なさい。そうすればわかります。」(1:39)「ついて行った」
「来なさい」(1:31)は、ギリシャ語はエルコマイ(来る、行く、着く、帰ってくる、立ち返る)の意味です。この言葉はルカ15:17の放蕩息子の悔い改めの言葉に使われます。『しかし(彼が)我に返った時こう言った。』
『お父さん私は、天に対して、罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』「15:18)この『我に返る(立ち返る)』が同じエルコマイが使われています。放蕩息子にとって『我に返る』(悔い改める)ことが父なる神様に出会うために大切でした。
それは自己中心の生活から父なる神様の家で愛の生活をするためには必要だったのです。アンデレが求道を始めて洗礼者ヨハネのもとで教えられて、救い主イエス・キリスト様に『ついて行った』(悔い改める)新しい生活が始まることでした。
※ 私達の信仰も罪を悔い改めることがまず始めです。それが、これからの人生をイエス様について行くことです。
【3】救い主にとどまる(1:38-39)
『イエスの泊まっておられる所』
『その日彼らはイエスと一緒にいた』「泊まって」と「一緒にいた」は同じ言葉でギリシャ語は《メノー》です。意味は(滞在する、泊まる、一緒に住む、繋がる、留まる、存続する、生存する、残る、生きながらえる)ヨハネ福音書はこの《メノー︙留まる、繋がる》を15章でぶどうの木と枝との関係で、イエス様と私達クリスチャンの関係を教えています。『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしに留まり、わたしもその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることが出来ないからです…あなた方がわたしに留まり、わたしの言葉があなた方に留まるなら、何でも欲しい物を求めなさい。
そうすれば、あなた方のためにそれが叶えられます…わたしの愛の中に留まりなさい。』(15:5、7、9)
救い主イエス様に(1)『ついて行く』ことは自己中心の歩みから方向転換(悔い改めて)従って行くことです。そして(2)そして3つに留まる(繋がる)こと。①イエス・キリスト様ご自身に留まる(繋がる)
②イエス・キリスト様の御言葉に留まる(繋がる)
③イエス・キリスト様の愛の中に留まる(繋がる)ことです。
アンデレは救い主イエス様を信じて、この御言葉にあるような信仰生活を送って行ったのです。※ 私達もまた、救い主イエス様を信じることができたのは聖霊様が、この聖書の御言葉の真実を教えてくださったからです。
※ 私達は聖霊様によって①イエス様の十字架と復活によって罪の赦しと体の復活を信じる信仰に繋がり②イエス様の御言葉である聖書に繋がり③イエス様の愛の中に留まり続けることができる教会生活を続けていきましょう!!「けれどもあなたは、学んで確信したところに留まっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼い頃から聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」Ⅱテモテ3:14-17 ハレルヤ‼️
「主イエス・キリストに堅く立つ」
ヨハネ1:19~34,3:22~36
今年のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》として、ヨハネ書から7つのしるしを学びました。
次は、ヨハネ書からイエス様に出会った人について学びたいと思います。
今日は、バプテスマ(洗礼者)ヨハネ(1:19-34,3:22-36)
【1】イエス・キリスト様に救われることは、 人生の真中に自分の救い主として迎えることです。
ヨハネ3:29に洗礼者ヨハネは、イエス様を救い主として迎えることは
「友人(洗礼者ヨハネ)は花婿(イエス様)の声を聞いて大いに喜びます。
それで私(洗礼者ヨハネ)もその喜びで満たされているのです。」
※私達も洗礼者ヨハネのように、喜びで満たされるには、イエス様を人生の中心に迎えることです。
1:26「あなた方の中におられる」(中に=メソス=真中、中心、中央の意味です。)※私達が救い主イエス様を信じることは、人生のすべての事において、イエス様を真中に(中心に)据えてイエス様に教えられることです。
ルカ2:46「イエスが宮で教師たちの真中に(メソス)すわって話しを聞いたり質問したりしてすわっておられるのを見つけた。聞いた人々はみなイエスの知恵と答えに驚いていた。」
そしてイエス様は3日目に復活した日に、この弟子たちのところに来られました。そして「彼らの真中に(メソス)立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』と言われ。」
(ヨハネ20:19、26)
※私達の信仰は復活の主イエス様に毎日お会いすることです。
私達の人生の真中、中心に歓迎して、人格的な愛の交わりの関係に生きる事です。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々の為には、 神は全ての事を働かせて益としてくださることを私達は知っています。」
※この事は人生の真中、中心にイエス様が据えられているので、
すべてが益となるのです!!
【2】イエス様に救われる事は、人生の真中に立っている救い主に委ねることです。(1:26)
「立っている」(ステェィオ=堅く立つ、立つの現在時制なので堅く立ち続けるの
意味) ヨハネ1:35洗礼者ヨハネは
イエス様を「見よ世の罪を取り除く神の小羊」 ヨハネ1:29=証言者と信じて堅く信仰に立ち続けました。
※私達が救い主にお会いして、人生の真中、中心に据えて導びいていただきます。 そして次は、人生を歩むために
「イエス様を信じる信仰に堅く立ち続けさせていただく必要があります。
*マルコ2:1-12 中風の人を治していただくために4人の友達が
イエス様のいる家に連れて来ました。しかし(大勢の人がいて、どうしても病人 を運び入れる事ができません。それで屋上に登り屋根を剥がし、そこから病人を 寝床ごと吊り降ろします。ちょうど人々の真中に(メソス)おられたイエスの前 に吊り降ろしました。するとイエス様は4人の友達の信仰を見て、病人に言われ ます。『あなたの罪は赦された。起きて床をたたんで歩きなさい。』すると癒さ れ歩き出しました。
※イエス様が立っておられるのは、信仰の創始者であるからです。(ヘブ12:2)
ですから救い主を信じる私達の信仰は
「堅く立ち続けることができるのです。そのためにはそのためには「イエス・キリストの十字架による罪の赦し、3日目の復活による赦しの保証から目を離さないことです。
ガラテヤ5:1「キリストは自由を得させるために私たちを(罪から)解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って(メソス=堅く立って)再び(罪の)奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1コリント16:13、ピリピ1:27、Ⅱテサロニケ2:15 信仰に堅く立つ 聖書箇所)
【3】イエス・キリスト様に救われることは、人生の真中・中心にイエス様を迎え、 信仰に堅く立ち、聖霊に導びかれることです。(ヨハネ1:33-34)
※洗礼者ヨハネは1:33で
「イエス様が『聖霊によってバプテスマを授ける方である』と証言しました。つまりイエス様が『聖霊様を私達に遣わされるのです』ヨハネ20:19-22で、復活されたイエス様は、弟子達に現われて「平安があなた方にあるように」と声をかけられました。すると弟子達は『主を見て喜んだ』のです。
そしてイエス様は弟子達にこう言われます。『父が私を遣わしたように私もあなた方を遣わします。』そしてこう言われると彼らに息(聖霊)を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(20:22)※聖霊様を受けることは、
イエス・キリスト様を救い主として人生の中心に置き、堅く信仰に立って歩むために必要不可欠なことです。
※なぜなら『聖霊によるのでなければ誰もイエスは主です。と言う事はできません。』 1コリント12:3 イエス様を信じることができないからです。
※「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を様々な情欲や欲望と共に十字架につけ てしまったのです。私達が御霊(聖霊)によって生きるのなら、御霊(聖霊)に導か れて進もうではありませんか。」ガラテヤ5:24-25
※現代のクリスチャンは聖霊様に満たされ(エペソ5:18) 導びかれる人生です。(ガラテヤ5:25) その為に
毎日【聖書を読み・祈る生活】そして
【聖霊が働かれる礼拝(集会)】を
喜び楽しみ・感謝と歌声をもって行ないましょう!!
「イエス様の愛にすがり、生きること」マタイ17:14~21
てんかの息子の癒し
今日は「お父さんに感謝を表わす」
父の日です。聖書の中には、
父親の信仰について
(1)会堂管理者ヤイ口が娘を病気による死から救って生きるように願い救われる事(マタイ9:18-25)(2)王室の役人の独り息子の病気による死からの甦りの救い(ヨハネ4:26-53)
(3)ナインのやもめの独り息子の死の甦り(ルカ7:13)
(4)てんかんの独り息子が癒されるように(救われるように)父親が願い救われる。この箇所はマタイ17:14-21、マルコ9:14-28、ルカ9:37-41、同じ記事があり、重要な出来事です。
※今日はてんかんの息子を持つ父親の信仰について学びます。
【1】イエス様のあわれみ(愛)にすがる
救いを求める信仰(マタイ17:14-15)
てんかんの息子の状態(マルコ9:17-22)
(1)ロをきかなくする霊につかれた
(2)所かまわず押し倒す
(3)泡を吹く
(4)歯ぎしりする
(5)体をこわばらせる
(6)ひきつけ(7)地面に倒れる
(8)泡を吹きながらころげ回る
(9)幼い頃からこのような状態
(10)何度も火の中、水の中に投げ込んだ(マルコ9:17-22)
父親の大切な独り息子が、こんなにも凄い状態であった事が分かります。
ここでは病気と悪霊の働きは、神様から人間を離し、滅ぼす力です。
しかし「ただ、もし、おできになるものなら、私達を
あわれんで(スプランク二ゾマイ=元の意味は内蔵が切り裂かれる事(マルコ9:22)
=心の底から愛される強いあわれみ)
助けて下さい」
※スプランクニソ"マイは、イエス様の人間を深くあわれむ愛の事=聖書で12回だけ使われ、特に病人の癒しに使われています。 (1)エリコの盲人(2)ツァラ一ト(らい病)
(3)ナインの青年の死
(4)てんかんの息子の4回です。
※父親の信仰は「イエス様のあわれみ(愛)にすがる事でした」
信仰(ピステウオ=大きな木に寄りかかる、しがみつく意味)
※私達も「全知全能の神=イエス様のあわれみ(愛)にすがる事です。これが大切です。
【2】イエス様に不信仰を指摘され、
悔い改める信仰
父親には信仰がありました。しかし父親の信仰は「その子をお弟子達の所に連れて来たのですが、直す事ができませんでした。」と言います。(17:16)
するとイエス様は「ああ、不信仰な曲がった今の世だ…」(17:17)そして、
「イエスが叱りつけると悪霊はその子から出て行き、その子は直った。」(17:18)
・マルコ9:23ではイエス様は
「できるものならと言うのか。信じる者にはどんな事でもできるのです。」
・するとすぐ父親は叫んで言った。
「信じます(ピステウオ=すがります)不信仰な私をお助け下さい。」(9:24)
※ここでイエス様が教えたかった事は「不信仰」です。
※私達人間は 「病気、死、別れ、離婚、失業、事故、災い、災害、失敗・・・」などがあると、 この父親のように「なぜ・どうして」となります。
※しかし、神様が私達人間に求めている事は「何のために生きるのか?」という 目的を見つける事です。
※この独り息子の為に父親が生きるのではありません。私達信仰者の目的は「神様の栄光を現わし、神様を喜ぶ」ために生きるのです。
もし病気が直る事が目的であれば
・会堂管理者ヤイロの娘・王室の役人の息子・ナインのやもめの息子・てんかんの息子の癒しは、ただの病気の治療にしかすぎません。
「信仰とは=神の栄光を現わし、神を喜ぶ」ことを、神様に寄り頼むか、すがるかです。 ですから、この父親に求められたのが「あなたは、神の栄光を現わし、神を喜ぶ」 信仰はあるのか?
という事です。
※私達も今ある自分を深く悔い改め、新しく造り変えられましょう。
(ルカ11:9-13)
何度も何度も祈り求めましょう。
【3】イエス様に祈り続け、生かされていく信仰
聖書の中の、病気、死からの癒しは霊的な魂の救いの事を教えています。
イエス様は弟子達に
「この種のものは祈りと断食によらなければでていきません。」(マタイ17:21)
信仰は型としてのものではありません。ですから「あなたがたの信仰は薄いからです。」(17:20)と言われています。
その信仰を生かす事ができるのが聖霊様です。(ルカ11:9-13)
その為に「求めつづけ、捜し続け、叩き続ける」祈りが必要です。
「そうすれば聖霊が与えられます。」(ルカ11:13)とイエス様は言われます。
※「今ある病気、苦しみ、悩みは後に来る栄光に比べたら取るに足らない事です。」 ローマ8:18
※「今の時の軽い患難は、私達のうちに働いて、測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです。」Ⅱコリント4:17
「祈りに導かれるものは、すべて良し!」(あるクリスチャンの言葉)
「人はいつでも、やり直しができる!」(青木康正師の言葉:オリーブの実主幹)
「神にとって不可能なことはひとつもありません。」 ルカ1:37
「できるものならと言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 マルコ9:23とイエス様は言われます!! ハレルヤ!!
「主の復活に生きる喜び」
今年の教会のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ書から7つのしるし・奇跡は全てイエス・キリスト様が、私達を罪の暗闇の世界から、罪が赦され神の子どもとされる光の世界に入れられる「喜び楽しみ、感謝歌声がある者」に変えられる、救いについて教えています。
の教会のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ書から7つのしるし・奇跡は全てイエス・キリスト様が、私達を罪の暗闇の世界から、罪が赦され神の子どもとされる光の世界に入れられる「喜び楽しみ、感謝歌声がある者」に変えられる、救いについて教えています。今日は7つ目の
「ラザロの復活から
キリストの復活に生きること」
を学びます。
【1】イエス様の愛 ヨハネ11:5
イエス様が私達を愛しているゆえに、罪と死の暗闇の中から救ってくださいます。「この病気は死んで終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスは、マルタとその姉妹「マリヤ)とラザロを愛しておられた。(11:5-6)「愛しておられた」アガパオは、末完了時制ですので、イエス様は「これからも主体的に積極的に愛し続けてくださる」の意味です。(ギリシャ語事典より)11:4で死んでしまったラザロの名前は「神は助けである」の意味。イエス様が3年半の公生涯このベタニア村の3人の兄弟姉妹の家に泊られて、交わりをしていました。(ルカ10:38-39)イエス様は神の国の事・十字架の苦しみ・死と復活について(マタイ20:18-19)永遠の命について(ヨハネ4:14)罪からの救い・義と認められることについて(ルカ18:13-14)話されたことを聞いていました。ヨハネ11:21-24「私(マルタ)は終わりの日のよみがえりの時に、彼「ラザロ)がよみがえることを知っております。」と答えています。※ 死者の復活について福音書に3回記されています。(1)ヤイ口の12歳の娘(マルコ5:22-43)(2)ナインの未亡人の青年の息子(ルカ7:11-17)(3)ラザロ(ヨハネ11:1-46)
※ イエス様はこの死人をよみがえらせる動機は愛(アガパオ=深くあわれみ、かわいそうに思う、主体的、積極的な愛からなのです。)「神はそのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになるほどに、この世(あなた)を愛(アガパオ)された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者はひとりも滅びることなく永遠の命を持つためである」(ヨハネ3:16)
※ 私達もまた、イエス様に愛(アガパオ)されています。イエス様の十字架と復活による罪の赦しと復活の命に感謝しましょう!!
【2】イエス様の救いは死で終わるものではない。(11:4)かならず復活し、永遠の命を持つのです(11:25) 当時の4日たった死人は「臭くなっている(11:39)」完全に死んだことを表します。イエス様は4日たってラザロの墓に行かれました。イエス様を信じることは、死という病いが直るという救いだけではなく、もっと大切なこと、この世の罪、暗闇、死、サタンの支配から解放してくださることなのです。(ローマ6:23)「神は、ご自分の大きな憐れみの故に、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私達を新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにして下さいました。」(1ペテロ1:3)
「それは彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(イエス・キリスト)を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒26:18)
※ 私達はイエス様を信じるバプテスマを受けた時、水に浸かる時、古い罪人の私は死に、水から上がる時、新しいキリストと共に生きる命をいただきました。その命こそ『命の御霊(聖霊)』です。この「命の御霊を受けた時(原理・法則)が罪と死の原理(法則)からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2)復活の命(永遠の命)に生きることは御霊(聖霊)によって生きることです。
※「イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊(聖霊)によってあなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」「ローマ8:11)
主に感謝します!
【3】イエス様は祈りによって全てを行なった。(11:41-43)「あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」11:40 そしてイエス様は目を上げて祈られました。(1)父よ。感謝します。私の願いを聞いてくださることを。(確かに聞いてくださる)というアオリスト時制です。(2)父よ。知っていました。あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを。しかし私は回りにいる群衆のために(知っていました=オイダ 過去完了時制は創造の時からずっと知っている)
(3)「父よ。信じるようになるために、この人々が、あなたが私をお遣わしになったことを 」
※ 復活信仰に生きるためには
『祈り続ける』ことです。
(ルカ11:9)それによって聖霊様が常に働かれるからです。(使徒4:31)
このイエス様の祈りに教えられましょう。どんな事も(1)主への『感謝の祈り』から始めましょう。(1テサロニケ5:16-18)(2)そして、すでに祈ったことは『叶えられた』と信じて祈り続けましょう。(ルカ11:10)
(3)そしてイエス様の言葉を聞き、聖霊に聞き従って生き続けましょう。これが祈りの生活(復活信仰)なのです。(ルカ11:13)
※ 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さること、これこそ神に対する私達の確信です。私達の願う事を神が聞いて下さると知れば、神に願ったその事はすでに叶えられたと知るのです。」1ヨハネ5:14-15
※ 私達人間の生きる目的は
「神の栄光を表わし.また神を喜ぶ事」です。それは復活したイエス様と共に生き、動き、存在することです。
(ガラテヤ2:20)それが「祈りによって全てを行われ、神様の栄光を表すことです。そして神を喜ぶ生活なのです。」祈りに導かれる主に感謝します!ハレルヤ‼️
「主を見て喜ぶ」
今年の教会のテーマ=イザヤ51:3《主の園=喜び楽しみ・感謝歌声がある教会》としてヨハネ書から7つのしるし・奇跡は全てイエス・キリスト様が、私達を罪の暗闇の世界から、罪が赦され神の子どもとされる光の世界に入れられる「喜び楽しみ、感謝歌声がある者」に変えられる、救いについて教えています。今日は第6「盲人の開眼」の奇跡から「救い主イエス・キリストを見て喜ぶ」信仰について学びます。【1】霊的な目が開くのは聖霊による(9:11、17、33)生まれつき盲人の目は聖霊により、信仰によって開けられます。・盲人の信仰は、イエス様の言葉に従って「シロアム(遣わされた者)の池に行って洗うと見えるように(ブレポウ=ただ見る)になりました。」(9:11)
・盲人にパリサイ人は尋ねます。「あの人(イエス様)が目を開けてくれたことであの人をなんだと思っているのか?」盲人の信仰の答え「あの方は預言者です。」(9:17)
・盲人の信仰は預言者から『神』となります。「あの方(イエス様)が神から出ておられるのでなかったら何もできないはずです。」(9:33)・イエス様は盲人が開眼してイエス様を見たことを「あなたはその方(人の子=イエス・キリスト)を見た(ホラオ=納得する)のです。あなたと話しているのがそれです。」目が開いた盲人は言った。「主よ。信じます。」そしてイエスを礼拝した。(9:35~38)・「イエス様を拝した。(礼拝=プロスクネオ)」(9:38)この礼拝(プロスクネオ)はヨハネ4:23「真の礼拝者たちが聖霊と真理によって父(神)を礼拝する時が来ます。今がその時です。父(神)はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」(4:23~24)※ 盲人が肉体的な目が開かれることは、信仰によって霊的な目が聖霊により信仰によって開けられたことが解かりました。私達も同じように、目には見えませんが霊的な目を聖霊によって開けられて救い主イエス・キリスト様を喜びと感謝をもって礼拝しましょう。【2】霊的な目が開かれることは、罪の暗闇から罪が赦される光の世界に入れられる救いです。パリサイ人はイエス様の言われる霊的な開眼がわかりません。「私(イエス様)はさばきのために(聖霊は『罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネ16:8)』この世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9:39)……もしあなた方(パリサイ人)が盲目であったなら(罪人と自覚するなら)あなたがたには罪はなかった。ところが『私達は見える(何もかもわかっているとあくまでも言いはること)』あなたがたの罪はそのまま残るのです。」(9:41)※ この問答の中で大切なことは、私達人間は「すべての人は罪を犯す罪人です」(創世3:6、ローマ3:23)ですから、この罪を赦すために、イエス・キリスト様が十字架で罪人の身代わりとなって裁かれました。そして3日目に復活することによって、すべての罪のさばきから解放されたのです。この福音を信じることができることが聖霊の働きなのです。※ イエス様はパウロに次のように言われました。「私はあなた(パウロ)を救い出し、遣わす。それは、彼ら(全世界の人々)の目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、私(イエス様)を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって、御国(天国)を受け継がせるためである。」(使徒26:18) ですから私達も、イエス・キリスト様の十字架と復活の福音を宣べ伝えましょう。【3】霊的な目が開かれるために必要なことは御言葉と祈りです。(1)み言葉が霊の目を開く「イエス様は復活した日、弟子クレオパともう1人の弟子がエマオ村に向かって歩いていた時、旅人の姿でイエス様が近づいて、『イエス様の復活』について話し合っていました。イエス様は聖書全体の中から「キリストは苦しみを受けて(罪の身代わりとしての十字架)それから、キリストは栄光(3日目に復活する)に入る。」ことについて話し続けられました。そしてエマオ村に着いて、一緒に泊まられるために中に入り、彼らと共に食卓についてイエス様はパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。その時『彼らの目が開かれ』イエスだとわかりました。」(ルカ24:13~32) (2)祈りが霊の目を開く エリシャがアラムの王から殺されそうになりました。町が包囲された時、エリシャのしもべがそれを見て恐れました。すると「どうか彼(しもべ)の目を開いて見えるようにしてください。」主が若者(しもべ)の目を開かれて見ると、なんと火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来た時、エリシャは主に祈って「どうかこの民を打って盲目にして下さい。」すると彼らは盲目となった。(Ⅱ列王6:15~18)※ 私達は毎日、聖書のみ言葉を読み(説教を聞き)そして祈る(祈祷会)時、聖霊は働きます。そして聖霊によって霊の目が開かれると・イエス・キリストの十字架が私の罪のためであったこと。3日目の復活は、私が天国で復活の命(永遠の命)に生かされる恵みに(喜び楽しみ・感謝歌声)をあげる礼拝を持つことができるのです。今日も礼拝を通して「主を見て喜ぶ」「ヨハネ20:21)ことができますように祝福します。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者。見よ、古いものは過ぎ去り、全てが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17
「主の命に生きる喜び」
ヨハネ6章は有名な「5つのパンと2匹の魚で男たちおよそ5000人を給食された」奇跡の話の話しです。重マタイ、ルカ、マルコの4福音書にあり重要なのです。私達が生きるのに大切なことは「自分で生きているのではなく、イエス様に生かされている」ことを知ることです。それは「命のパン」である「イエス・キリストを食べる」(信じて生きる)ことです。」【1】イエス様から与えられる命(ヨハネ6:53-54)※ イエス様に愛されていることを知ることです。ヨハネはイエス様の愛を具体的に「自分の命(天からのパン)を与えることをおおよそ5000人の給食の奇跡を通して教えています。(ヨハネ6:32-58)この「命を与える愛という言葉」を ※ スプランク二ゾマイ(あわれみ、いつくしみ、愛の深い)という言葉でマタイ9:36、マルコ8:2が使っています。この言葉は「はらわたがちぎれる」という意味です。この日本語の由来は中国の言葉です「舟で旅をしていた人が、小猿を捕まえて舟に乗せる。するとそれに気づいた毋猿が鳴き声を上げながら、岸辺づたいに追いかけ、ついに追いつき、舟に飛び乗った。我が子を抱いた途端悲しみのあまり力尽き死んだ。母の腹を裂くと、はらわたが、ずたずたにちぎれていた」この母猿が子を思う愛の表現とされています。イエス様の愛もこの言葉スプランクニソ"マイを用いて「十字架で私達の罪の身代わりとなって、体の肉を裂いて、血を流して罪を赦すために命がけで愛してくださったのです。」ここにイエス様の愛があるのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」1ヨハネ4:10 【2】イエス様から与えられる命(6:10)※ イエス様は「すわらせて」食べさせてくださることを知ることです。※ 「すわらせる」アナパウオ(楽にする、休ませる、安息を与える)この言葉はマタイ11:28「すべて疲れた人重荷を負っている人は私(イエス様)の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげます」で使われています。アナ(~の上に)パウオ(停止、とまる)の合制語で「その場所には草が多かった」6:10にあるので「草の上に停止した」つまり「すわらせなさい」と言って休ませたのです。私はここで教えられました。イエス様は「彼らは羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ…」あわれみ深い、いつくしみ深い、愛の神様、イエス様は「私達はみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った」この自己中心な罪人の罪・咎をイエス様に負わせたのです。「主は私達の全ての咎(罪)を彼(イエス様)に負わせた」イザヤ53:6「イエス様は十字架の上で、苦しめられ、痛めつけられ、ののしられ、あざけられて、私達の罪をその身に負われました。」そして3日目によみがえって、その罪を赦したことを宣言されました。(ヨハネ11:25)このことを信じる者は罪を離れ、義のために生きる(イエス様の命に生きる者)ことができるのです。イエス様は私達の羊飼いです。(ヨハネ10:11)「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」詩篇23:1-4 ※ イエス様が緑の牧場に伏させ(草の上にすわらせ休ませてくださる方)牧草である食物のパンといこいの水のほとり(聖霊の水)を自らの体を十字架の上で肉を裂き、血を流して私達に聖餐式としてお体を与えてくださるのです。私達が聖餐式にあずかる時、すべての思いわずらい、すべての悩み苦しみの重荷を取り去って、休ませてくださるのです。【3】イエス様から与えられる命(6:11)※ イエス様がすでに感謝をささげておられることを知ることです。「感謝をささげ」(工ウカリステオ)工ウ=(良い) 十 カリトオ(恵みを施す、恵みを与える)※ 神に造られた人間が、本来神様にいただいた食べ物を食する前に感謝のお祈りをした時の表われです。イエス様は最後の晩餐の席で、過越の食事を取る時(イエス様が過越のほふられる小羊として御自身をさしてこう言われました。「まことに、まことにあなた方に告げます。人の子(イエス様)肉(パン)を食べまたその血(ぶどう酒)を飲まなければ、あなたがたのうちに命はありません。私の肉(パン)を食べ、私の血(ぶどう酒)を飲む者は永遠の命を持っています。私は終わりの日(最後の日)にその人(イエス・キリストを信じる者)をよみがえらせます。」「ヨハネ6:53-54)※ (1)ヨハネ22:17「イエスは杯を取り感謝をささげて」(2)ヨハネ22:19「それからイエスはパンを取り感謝をささげてから弟子たちに与えて言われた」※ イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を定めて言われました。「私の肉(パン)はまことの食べ物、私の血(ぶどう酒)はまことの食み物だからです。私の肉(パン)を食べ、私の血(ぶどう酒)を飲む者は私のうちにとどまり、ぶどうの枝(クリスチャン)がぶどうの幹(イエス様)にとどまるなら私(イエス様)も彼のうちにとどまります」ヨハネ6:55~56 ※ イエス様の感謝は、イエス様ご自身を、私達罪人の身代わりとして工ウカリステオ(良い恵みを施す)感謝を神様にささげられたのです。※ 現代の私達もまた私を神様にささげる感謝の聖餐式礼拝を今日ささげられることを感謝いたしましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえにあなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1
「主の癒しによる喜び」 ヨハネ5:1-14
主の園(エデン=喜び楽しみ)与えられる所が天国です。今私達は、この世の中で生活しています。その中で主の園の「喜び楽しみ・感謝歌声とがある」はどのようにしてでしょうか?ヨハネ福音書の『7つの奇跡』は、イエス・キリスト様がメシヤ(救い主)である事を証明しています。「救い主=イエス・キリスト様」を信じる事が「主の園エデン=喜び楽しみ・感謝歌声」を回復する事なのです。
「38年間病の男の人癒し」
新約聖書では6つの「癒し」の言葉があります。
(1)イオマイ(病気を治す、医薬で治す)
(2)セラペウオ(手当てする、看病する、
仕える、セラピスト)
(3)ソ一ゾ一(救う、助ける、治す)
(4)ウギエイス(健康になる、良くなる)
(5)ルオー(解放する、ほどく)
(6)ザオー(直る生きる生き続ける生命力)
今回第4回は、ヨハネ5:1-14 ここでは、ギリシヤ語のウギエイス(健康になりたいのか?)の癒しの言葉が使われます。
※信仰とは。イエス様に「よくなりたい」という意志を私が、示す必要があります。「起きる」「取り上げ」「歩く」という決断する意志です。
【1】『起きなさい』
の招きに応える信仰(5:8)
※信仰とはイエス様の言葉に応答する意志です。「起きなさい」工ゲイロオは現在命令形ですから強い命令を表わす言葉です。「今まで寝たきりで体が病で縛られていた状態から「飛び起きよ。ぬけでなさい。」この言葉は新約聖書143回使われ、使われ方は(1)罪からの救いの意味(2)人が新しくなる『よみがえる』にも使われる「復活用語」です。故日野原重明氏(105歳)は「命を創る」の本の中で「人は、いつからでも創められる」「老いることは楽しからずや、ただし、創める事を忘れなければ…」※『ベテスダ』の池は『あわれみの家、恵みの家』の意味です。当時、この池の水が「間欠泉」で水が湧き上がって出る時と、静かで出ない時とあったようです。その状態を天使が降りてきて水をかき回す。すると水が動くと言われ、その時水の中に入ると神によって癒やされるといわれていたのです。『よくなりたいのか?』と言うイエス様の言葉はまさに神の声です。大勢いる人々の中でこの【38年間の病の男】を特別に選んで癒される事は、イエス様の「ベテスダ=あわれみ、恵み」による愛なのです。その愛の招きを受け入れる事が『救い』なのです。直訳「あなたはウギエイス(健康、良くなる、正しくなる)を求めるか?」(5:6)この御言葉を信じる事が信仰による癒し(救い)なのです。「喜び楽しみ・感謝歌声」の創まりはイエス様の言葉(聖書)を信じる意志からはじまるのです。
【2】『取り上げなさい」
の命令に従う信仰(5:8)
イエス様の言葉に応答し、その言葉に従う事です。「信仰は、聞く事から始まり、聞く事はキリストについての御言葉によるのです。」(ローマ10:17)
※自分という床(この世での価値感にある姿=罪の世・自己中心)から解放されるには床を『取り上げなさい』=アイ口オはアオリスト時制の命令です。自分という床(罪)を『きっぱりと、取り上げよ!』つまり、今ある自分の罪の状態からきっぱりと別れて新しい生活を創る事です。※「うしろをふり返らない」(創世19:17、26)この失敗はロトの妻は「後をふり返った」時、塩の柱となり亡くなりました。
※パウロの信仰は「この一時に励んでいます。後のものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得る為に目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)※この信仰が今日私達に必要な生活です。毎日、聖書の御言葉を読み、祈って賛美で一日を創める。私が今週また教えられたのはルカ11:1-13『祈りについて』です。イエス様は、毎日罪を犯す羊のような弱い私達に【祈り】を教えて下さいました。毎日「求め続けなさい。捜し続けなさい。叩き続けなさい。」と命令を下さいます。その結果が『聖霊が与えられる』と約束しておられるのです。今日もイエス様の御言葉に従う信仰は・祈り続ける事によって、聖霊様は必ず働いて、私達を【義の道に導かれる!!】事を信じて従いましょう。「私達は、キリストの死に預かるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から甦られたように、私達も、命にあって新しい歩みをするためです。」
(ローマ6:4)
【3】『歩きなさい』の命令は
御言葉に従う、実践する信仰
5:8 『歩きなさい』ペリパテオ−(現在時制、命令、未完了)の合成語で・ペリ(まわり)・パテオー(歩く)これを訳すと『歩き回り続けて終らない』状態です。 ※38年間歩いた事がない男の人が一番願ってきた事が、イエス様に癒され、すぐ実行(実践)して「歩き回り続けている」救われた世界。喜び楽しみ・感謝と歌声のある人生なのです。そしてイエス様の方からもう一度38年間歩いた事のない男を見つけて言われます。「見なさい。あなたは健康になった(正しく、良くなった)もう二度と罪を犯し続けてはいけない。そうでないと、もっと悪いことが、あなたの身に、確かに起こるであろう。」(5:14)この事についてイエス様はマタイ12:43-45の例話の中で「悪霊がおい出されて(救われて)家(私達の心)は掃除してきちんと片付いていました。そこで、出かけて行って(再び罪の世に振り返る、信仰を捨てる)自分よりも悪い他の霊を7つ連れて(完全数を表わす)みなそこに住みつく…その人は初めよりも更に悪くなります。」ペテロも同じ事を
Ⅱペテロ2:20ー21で言っています。
※ですから私達は救いの聖書の御言葉を信じて日々聖書を読み、祈って聖霊様に導かれて歩き回り続けましょう。「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなた方は幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなた方の上に留まってくださるからです。」Ⅰペテロ4:14
※主に癒され・救われた者は喜び楽しみ・感謝の歌声をささげましょう!
「聖霊による宣教」
今年藤代聖書教会は宣教58周年を迎えます。私達唐沢伝師・佐恵子師が遣わされ41年を終えました。ラブリーチャペル会堂が建てられ39年目です。今年の教会のテーマ=イザヤ51:3
《主の園=喜び楽しみ・感謝・歌声がある教会》として宣教を学びましょう。ヨハネ20章は復活されたイエス様が、弟子たちに現れて、これから宣教にお遣わしになるところです。
【Ⅰ】聖霊の働きは救いによる喜び
Ⅰコリント12:3には「誰でも、聖霊によるのでなければ『イエスは主です』と言う事はできません。」とあるように宣教をする時は『聖霊様の働きを祈り求める事が初めの出発です。
※初代教会の出発は《祈祷会からです。》「みなが心を合わせ、祈りに専念していた。・・・およそ120名ほどの兄弟(姉妹)達が集まっていた。」(使徒1:14-15)そして10日間同じ場所で「祈り続けている」とペンテコステの日に神様が《聖霊様》をこの集会の人々にお与えになりました。すると、集会に集まった人々は、神の言葉を他国の言葉で話し出しました。弟子のペテロは、宮に集って来ていた大勢の人々に、イエス・キリストの十字架と復活は、私達の罪の赦しと、賜物としての聖霊様を受ける事を宣べ伝えました。すると3000人ほどの人々がイエス様を信じて救われました。(使徒2:1-41)
※今日、混沌とし、希望の見えない暗い時代にあって『喜び楽しみ・感謝歌声がある』所は教会に集う礼拝と祈祷会の中にあります。
「シオン=教会」を慰めて下さる主なるイエス様です。
※私達の廃墟、荒野、砂漠をエデン(主の園)のようにして下さるのは、主なるイエス様です。
そこには「楽しみと喜び、感謝と歌声がある。」(イザヤ51:3)所こそ、シオン=教会です。
※「弟子たちは、復活した主イエス様を見て(ギリシャ語ホラオ=ただ見るだけでなく納得した)喜んだ。」のです。(ヨハネ20:20)
※救いは毎日、復活の主イエス様とお会いすることです。その為にお祈りしましょう。祈りは復活の主イエス様との会話なのですから!!
【Ⅱ】聖霊の働きは救いによる平安です。
復活の朝の出来事をよく読むと『見る』という言葉が使い分けられています。
(1)マグダラのマリヤは墓に行って、墓がからっぽである事を見た。(ブレポオ=ただ見る事。)(ヨハネ20:1)
(2)ペテロは墓に入ると頭にまかれた布切れと体の部分の布切れが離れた所に巻かれたままであるのを見た(セアオマイ=観察する)(ヨハネ20:6)
(3)その時、もう独りの弟子も入って来て、そして見て(ホラオ=納得する)信じた。(ヨハネ20:8)
※救いの内容にはその理解が少しずつ変わっていきます。そして最終的には、イエス様の復活を見る事によって、理解し、納得し、信じました。
※今の私達は、イエス様は目には見えませんが、
聖書を読み、説教を聞いて、復活の主イエス様を信じて救われました。そこには、喜びと平安をいただいています。
※「平安」=エイレーネ(安全、繁栄、健康、平和、和解)
イエス様は復活して弟子たちの集まりで言われた言葉が「平安があなた方にあるように。」※へブル語で『シャローム』イエス様は弟子達を宣教に遣わされる時に言われました。
「その家に入る時、平安を祈る挨拶をしなさい。」マタイ10:12※イエス様が使われる平安とは弟子達を遣わす時に使われています。そして「弟子12人は出かけて行って村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え病気を治した。」ルカ9:6とあります。そして復活したイエス様はまたも、「平安があなた方にあるように、父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。」そしてこう言われると息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦すならその人の罪は赦され、あなた方が誰かの罪をそのまま残すならそれはそのまま残ります。」ヨハネ20:21ー23
※現代の私達クリスチャンにはもうすでに「聖霊様は与えられています。」そしてイエス様の十字架の身代わりの死による罪の赦し、そして3日目の復活による新しい命(復活)はあなたに与えられています。この福音が、信じる全ての者にとっての《喜びと平安》なのです。※その為に愛する家族、知人、友人の為に執り成しの祈りをし福音を宣べ伝えましょう!!
「全世界に出て行き全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15
「死は永遠のいのちの門なり」
倉沢正則氏
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。キリストの復活をお祝いします。このみことばに、私は大きな衝撃を受けました。6才の時に父親を病気で亡くし、母の嘆き悲しむ姿を目にしていました。「人は死んだら終わり?」と、成長するにつれて死への恐れや人生の虚しさを抱いていたからです。高校時代、キリスト教の宣教師と出会い、キリストの復活や「永遠のいのち」という言葉にとても惹かれ、キリストの復活に対する宣教師の真剣さや本気度にも圧倒されました。「まさか?」と思いつつ、もし本当だったらと思って、聖書を読み教会に足を向けました。 「永遠のいのち」を「もっと知りたい」と。 「死を超えるいのちの世界」があるとは驚きでした。私たちは、愛する家族や身近な人の棺の前で、自分の死を実感し、 「死別の悲しみ」に直面します。人を無力にする「死」に、私たちは望みを「極楽/天国」に求めますが、「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われるイエス様は、「新しいよみがえりのいのち」を今すぐ始めてくださいます。なぜなら、イエス様こそ私たちに死をもたらす罪の悲しみに憤われ、憐れまれて、十字架の死で私たちの罪を贖い、三日目に死者の中から「よみがえって」死を征服なさったからです。「死は永遠のいのちの門なり」と刻まれた墓石があるそうです。イエス・キリストを信じる者にとって、死は永遠のいのちへの門出になると。イエス・キリストこそ、いのちの源。彼岸をお金で買ったり、天国を善行・苦行で獲得したりする必要はありません。ただ、十字架で死に復活されたイエス様を心にお迎えすると、復活のいのちが溢れます。「わたしはよみがえりです。いのちです。あなたは、このことを信じますか?」
「世界で一番恐ろしい動物」
アメリカのハワイでのお話しです。一人の牧師が、ある動物園に見学に行きました。この動物園には、たくさんのオリがあります。この動物園の見せ物といいますと大きな看板が掛かったオリであります。そこには「世界で一番恐ろしい動物」と書いてあります。そのオリに行って見ますと、オリの中には動物はいません。中にあるのは大きな鏡が置いてあるだけだったのです。その意味に気付いた牧師は、これはいいと思い、そのオリのすぐそばで、見物人が来るのを待っていました。すると少したって、子どもと母親が歩いて来ました。そしてすぐ、その子どもはオリの中をのぞき込み、「どこにいるのかな?」という仕草をいたします。ところが母親は「世界で一番恐しい動物」という看板を見て、驚いて急いで飛んで行き子どもを抱き寄せてオリから離れました。そこに牧師先生が登場「お母さん。オリの中を見てくださいよ!! 」と言ってオリの前まで連れて行き立たせました。すると鏡に自分の顔が映っているだけなのです。あなたはどうでしょか?「世界で一番恐ろしい動物」は人間という事ですね! イエス様は神の御子でありながら、なぜ約2000年ほど前にベツレヘムの家畜小屋で生まれ飼葉桶に寝かされたのでしょうか。それが「動物として一番恐ろしい人間のためだったのです。」人間の恐ろしさは、人を殺すこと、盗みをすること、暴力をふるうこと、姦淫をすること、嘘をつくこと、むさぼること…など。世界のどんな動物よりも「恐ろしい動物です。」これらのことは心の中にある「罪」がもたらすものなのです。ですから人間は罪ある者として裁かれて当然です。しかし、憐れみ深い神様は、ご自分のひとり息子、イエス様を人間の罪の裁きの身代わりとして十字架につけて裁かれたのです。そして私たちの罪は赦されました。また死から3日目に復活することによって、信じる者すべてに「死んでも生きる命(永遠の命)」を与えてくださるのです。
「世界で一番恐ろしい動物」が、
やさしい愛の人間に変えられる為に、イエス様が今、私たちに与えてくださった賜物が聖霊様です。
ここに神の愛があるのです。
「その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」ヨハネ16:8「罪からくる報酬は、死です。しかし、神のくださる賜物は、主キリスト・イエスにある永遠の命です。」ローマ6:23
「神はその独り子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって、私達に命を得させてくださいました。
それによって、神の愛が私たちに示されたのです。」Ⅰヨハネ3:9
「御言葉を信じて生きる喜び」
ヨハネ4:46-54
主の園(エデン=喜び楽しみ)与えられる所が天国です。今私達は、この世の中で生活しています。その中で主の園の「喜び楽しみ・感謝歌声とがある」にはどのようにしてでしょうか?ヨハネ福音書の『7つの奇跡』は、イエス・キリスト様がメシヤ(救い主)である事を証明しています。
「救い主=イエス・キリスト様」を信じる事が「主の園(エデン=喜び楽しみ・感謝歌声)」を回復する事なのです。
(1)ヨハネ6:16一21『嵐の湖の上を歩いて渡る奇跡』を弟子達が経験することによって『イエス様を人生の舟の中に迎え入れる事が愛・喜び・平安が与えられる事です。』
(2)ヨハネ2:1-11『カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡』を弟子達が経験する事にって『イエス様を信じて心の中に迎え入れる事によって味のない水にような人生がぶどう酒を飲んで喜び楽しみ・感謝歌声のある甘い味じわいのある人生に宴会に変えられる事』を学びました。
※今回第3は、ヨハネ4:46ー54「王室の役員の息子の熱病の癒し」は、イエス様の御言葉を聞いて信じるて生きる事を学びます。
【1】王室の役人(父親)の熱心な求道心
力ペナウム~カナまでは約40km、徒歩で約10時間ぐらいかかります。(息子が直った時刻が午後1時(4:52)ですから朝3時頃家を出なければなりません。※また息子(パイデア)は幼児です。(聖書には書いてありませんが、たぶん1人息子の赤ちゃんが熱病で死にかけているので癒して下さるよう父親は願った。(エロタオは未完了時制ですから:願い続けたのです。)父親は自分の1人息子の赤ちゃんが死にかかっている絶対に救ってもらいたい一心で願い続けたのです。しかもイエス様は4:48で父親の信仰を試されます。それでも父親2回(4:47.49)「どうか息子をいやしてください。」と願い続けています。4:49「下って来てください。」(カタベイスイ)はアオリスト時制の命令形ですから強い命令で『絶対に下って来てください。』
※ 私達の病気や問題が解決するならば、感謝と歌声をあげます。しかし、まだ何の解決もない状態の中で喜びや感謝が生まれる事こそ信仰なのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
【2】王室の役人(父親)は御言葉を信じる信仰(4:49-50)イエス様はその信仰を見られて ※「帰って行きなさい」(ポレウオマイ)は現在命令形で『帰って行け!』つまり『今すぐ帰って行け』です。※「あなたの息子(幼児)は直っています。(ザオー)は現在時制で『今、もうすでに同時に直っています。(生きています)』です。※「その人(父親)はイエス様の言われた『ことば』を『信じて』(ピステウオ)はアオリスト時制ですから『確かに、事実に、信じた」事を表わします。※ 父親の信仰はイエス様の言われた『御言葉』の宣言を「確かな、絶対な、事実、もう既に息子(幼児赤ちゃん)が癒されたという信仰を持っていた事を表わしています。 ※ 私達の信仰も試されます。
(1)人生の海の嵐にもまれていてもイエス様が乗っておられるなら、むこう岸に着ける舟に私達は乗っている信仰。(2)水のような味気ない人生であってもイエス様が言われることを素直に従って行なえば、甘いぶどう酒に酔える喜び楽しみの人生に変えられる信仰。(3)人生の中で自分の息子が病気になって、自分ではどうする事もできない時、イエス様の御言葉(聖書)を信じて疑わずにいれば、癒され生きられるのです。
【3】罪からの救いは、霊的に死んだ者が、罪の重荷から解放されて、生きた者となることです。(4:51)*「あなたの息子は直った事を告げた」『直った』(ザオー)は現在時制で『生きている。今、生きている』を表わします。新約聖書では6つの「癒し」の言葉があります。(1)イオマイ(病気を治す、医薬で治す)(2)セラペウオ(手当てする、看病する、
仕える、セラピスト)
(3)ソ一ゾ一(救う、助ける、治す)
(4)ウキ工イス(健康になる、良くなる)(5)ルオー(解放する、ほどく)
(6)ザオ-(生きる、生き続ける生命力)
※ ザオーは『神によって生かされる命』として使われています。新約聖書では『イエス様が語られた言葉によって生きる事を教えています。』『生きる』ことは『永遠の命』に生きる事です。私達人間の一番大切な生きる目的の為に生きましょう
『神の栄光を表わし、
神を喜ぶことです。』
「誠に誠にあなたがたに告げます。私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会う事がなく、死から命に移っているのです。誠に誠にあなた方に告げます。死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです。」(ザオー︙神によって生かされる命を持つのです。=永遠の命)ヨハネ5:24-25
「イエス・キリストの祝福」
Y・Sさん
「私が40歳の時、クリスチャンのMさんと仲良くなりました。いつも笑顔が輝いていて、今思えば彼女の中にイエス様がいたと思います。彼女には自然と心を開くことができました。浮気ぐせのある夫の愚痴を言うと、その度に抱きしめて『Yちゃんの幸せを祈ってるよ。』と優しく励ましてくれます。・・・ある日、彼女から声が出なくなったと連絡がきました。伝えたいことがあるから、今から家に来るとのこと。直感的に死に至る病になったのではと、その場で泣きくずれて祈りました。『私のような者が生きて、彼女の命をとるのですか!』彼女が来た時、私は目を真っ赤にして泣いていました。『あなた、大丈夫!』と抱きしめられ、彼女は小さな声で耳元で話し始めました。『医者に、ステージ4の小細胞肺がんで、生存率は2%程度と言われたの。でも私の本当の医者はイエス様なの!』と天を指さしました。その言葉に驚き『なんでそんなに強いの!』と聞くと『私は弱い人間よ。でも私の中に生きているイエス様が強いの!』と答えるのです。『私もその強い神が欲しい!』と言うと、彼女はいくつかの御言葉からイエス様について教えて下さり、一緒に祈ろうと言いました。『私の人生を赦してください。あなたは、私の罪を十字架で背負って死んでくださり、私の中で生きるために3日目によみがえってくださいました。これからは全てを、ゆだねてイエス様と共に生きます。』祈り終わった時、私の心にイエス様が入ってくださったような感覚がしました。・・・彼女は治療のため遠くに引っ越しました。彼女から電話があり『洗礼を受ける事になったから、ぜひ来てほしい。』それを聞いて『私も一緒に受けたい。』と伝え、彼女の教会の牧師に了承を頂きました。主人にも伝えると、ぜひ行こうと言って、何時間も運転して連れていってくれました。100人ほどの教会のメンバーが見守る中の洗礼式。彼女が先に水に入ります。牧師が祈り、彼女が大きく息をはいた瞬間。ロ・鼻・耳など穴という穴から黒いものが出て行くのがはっきりと見えました。さらに、水面から上がってきた彼女の体に、七色に輝く金粉が付いているのです。この数秒で起こった信じられない出来事にあっけにとられているうち、私の番がやってきました。私もそうなりたいと大きく深呼吸をして水に浸かりました。
すると、それを見ていた、彼女も私から黒いものが出て行くのが見えたと、とても驚いていました。それだけではありません。私は、今まで20年以上も服用してきた抗うつ剤と睡眠薬は必要なくなり、お酒から解放され、食事もできるようになり、自殺願望も消え、精神的な病がその日に癒やされたのです。・・・・アルコール中毒、精神病、離婚などを経験した、私がイエス・キリスト様によって救われ、人生が180度変わりました。これらの癒やし、回復はイエス様の奇跡と言うしかありません。今はイエス様に救われた話をせずにはいられません。こんな喜びの人生があったのかと感謝でいっぱいです。・・・あなたの人生が幸せであるように。そしてイエス・キリスト様の祝福がありますように。皆様のためにお祈りしています。」
( CHRISTA 2024年.4月号より)「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 イザヤ41:10
「主を仰ぎ見る」
「郷里秋田で夫と出会った。まじめで建設的な考え方をする彼に、私は急速にひかれていった。ただ一つだけ私の心に暗い影を投げかけることがあった。母1人子1人の彼の口から事あるごとに出る『おふくろが・・・』の言葉。何をするにも、どこへ行くにも、まず母親の事を考える彼に『親孝行』以上のものが感じられて胸が騒いだ。・・・結婚した私にとって、姑の存在は、予想していたよりはるかに重荷に感じられた。彼女の一挙一動が神経にさわった。私は募る不満を夫にぶつけるようになった。・・・ある日夫が、姑の前で別居の申し出をロに出した。そのとたん、姑の顔色がみるみる変わった。『おまえがこんな女を連れてきたから、私の一生はめちゃめちゃになった。』怒鳴ったと思うと、傍らにあった仏壇にいどみかかり、仏壇は音を立てて倒れた。・・・以来、夫が『おふくろ』とロにするだけで、私の体はわなわなと震え出し、吐き気を催し、下痢をするようになってしまった。夫はそんな様子を見るに見かねて、私と子供を連れて家を出る決心をした。しかし、あの日以来、夫と私の間にはぎくしゃくとしたものが生まれ、ふとした言葉にもお互いの心がさびた歯車のように、ギーギーと不気味な音を立てて擦れあった。・・・全てはあの人のせいだ! 私は姑への憎しみを日々に募らせていった。・・・ある日、夫の戸籍を必要とする事があって市役所に出向いた私の前に意外な事実が・・・台帳の夫の名前の下に記された『養子』の2文字。私の目に今まで不可解に映った彼の言動の一つ一つが、この時深い同情をもって理解できた。・・・数年後、故郷の姑から電話があって、胆石の手術をする事を告げられた。その声は心なしか泣いているようだった。・・・姑の病気を知らされた時、私はふと、こんな思いに捕らわれた。私をいじめたあの人に、神様が罰を与えて下さったのだと。しかし、この考えは、私に何の快感ももたらさなかったどころか、心に言いようのない悲しみを残した。あの日・・・手術を知らせる電話をかけてきた日・・・姑は、これから受ける手術の事や入院費のことなど考えながら、一人ぽつねんと部屋に座っていたに違いない。押し寄せる不安と戦いながら、そして思い余って家へ電話を・・・その時の姑の寂しそうな後ろ姿が、彼女の入院中も、元気になったという知らせを聞いた後もなお私の目に浮かんできて私を悩ませた。【私が悪いんじゃない。あの人が寂しい思いをするのは自業自得なんだ!】繰り返しそう叫びながらも、私はいつしか自分の心に、何か今までと違う変化が起きている事に気づいていた。・・・そのころ通い始めていた教会で、この聖書の言葉を聞いた。『もし人の罪を赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません。』(マタイ6:14-15)長い間、姑の事で苦しんできた自分を助けて下さいと祈った私に、神が答えて、示して下さった言葉であると信じた。神は私に姑を赦せとおっしゃっている。『主よ、感謝します。あなたがこのような罪深い私を赦して下さいましたから、私も姑を赦します。姑が私に和解を求めてきたら、喜んで和解します。』そう告白して、神に熱い信仰をささげようとした。しかし神は牧師を通して、さらにこの聖書の言葉を私に与えた。『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしている時、もし兄弟に恨まれている事をそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。』(マタイ5:23-24)ああ、主よ。あなたはまず私が先に赦せよとおっしゃるのですか。・・・この聖書の言葉は朝な夕な私を揺さぶり続けた。・・・汗が流れ、血がにじむような思いの中で、ふと目に映ったのは、主イエス・キリストご自身が十字架の上で、この自分の為に汗を流し、血をしたたらせているお姿であった。『主よ、御言葉に従います!』とうとうかたくなな自我(罪)が砕かれて、あふれ出る涙と共に流れて消えた。」
(地上に輝く星たち?石綿悠子姉の証しより)
「神は、実に、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」 ヨハネ3:16
「御言葉を信じて生きる喜び」
ヨハネ4:46-54
主の園(エデン=喜び楽しみ)与えられる所が天国です。今私達は、この世の中で生活しています。その中で主の園の「喜び楽しみ・感謝歌声とがある」にはどのようにしてでしょうか?ヨハネ福音書の『7つの奇跡』は、イエス・キリスト様がメシヤ(救い主)である事を証明しています。
「救い主=イエス・キリスト様」を信じる事が「主の園(エデン=喜び楽しみ・感謝歌声)」を回復する事なのです。
(1)ヨハネ6:16一21『嵐の湖の上を歩いて渡る奇跡』を弟子達が経験することによって『イエス様を人生の舟の中に迎え入れる事が愛・喜び・平安が与えられる事です。』
(2)ヨハネ2:1-11『カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡』を弟子達が経験する事にって『イエス様を信じて心の中に迎え入れる事によって味のない水にような人生がぶどう酒を飲んで喜び楽しみ・感謝歌声のある甘い味じわいのある人生に宴会に変えられる事』を学びました。
※今回第3は、ヨハネ4:46ー54「王室の役員の息子の熱病の癒し」は、イエス様の御言葉を聞いて信じるて生きる事を学びます。
【1】王室の役人(父親)の熱心な求道心
力ペナウム~カナまでは約40km、徒歩で約10時間ぐらいかかります。(息子が直った時刻が午後1時(4:52)ですから朝3時頃家を出なければなりません。※また息子(パイデア)は幼児です。(聖書には書いてありませんが、たぶん1人息子の赤ちゃんが熱病で死にかけているので癒して下さるよう父親は願った。(エロタオは未完了時制ですから:願い続けたのです。)父親は自分の1人息子の赤ちゃんが死にかかっている絶対に救ってもらいたい一心で願い続けたのです。しかもイエス様は4:48で父親の信仰を試されます。それでも父親2回(4:47.49)「どうか息子をいやしてください。」と願い続けています。4:49「下って来てください。」(カタベイスイ)はアオリスト時制の命令形ですから強い命令で『絶対に下って来てください。』
※ 私達の病気や問題が解決するならば、感謝と歌声をあげます。しかし、まだ何の解決もない状態の中で喜びや感謝が生まれる事こそ信仰なのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
【2】王室の役人(父親)は御言葉を信じる信仰(4:49-50)イエス様はその信仰を見られて ※「帰って行きなさい」(ポレウオマイ)は現在命令形で『帰って行け!』つまり『今すぐ帰って行け』です。※「あなたの息子(幼児)は直っています。(ザオー)は現在時制で『今、もうすでに同時に直っています。(生きています)』です。※「その人(父親)はイエス様の言われた『ことば』を『信じて』(ピステウオ)はアオリスト時制ですから『確かに、事実に、信じた」事を表わします。※ 父親の信仰はイエス様の言われた『御言葉』の宣言を「確かな、絶対な、事実、もう既に息子(幼児赤ちゃん)が癒されたという信仰を持っていた事を表わしています。 ※ 私達の信仰も試されます。(1)人生の海の嵐にもまれていてもイエス様が乗っておられるなら、むこう岸に着ける舟に私達は乗っている信仰。(2)水のような味気ない人生であってもイエス様が言われることを素直に従って行なえば、甘いぶどう酒に酔える喜び楽しみの人生に変えられる信仰。(3)人生の中で自分の息子が病気になって、自分ではどうする事もできない時、イエス様の御言葉(聖書)を信じて疑わずにいれば、癒され生きられるのです。
【3】罪からの救いは、霊的に死んだ者が、罪の重荷から解放されて、生きた者となることです。(4:51)*「あなたの息子は直った事を告げた」『直った』(ザオー)は現在時制で『生きている。今、生きている』を表わします。新約聖書では6つの「癒し」の言葉があります。(1)イオマイ(病気を治す、医薬で治す)(2)セラペウオ(手当てする、看病する、仕える、セラピスト)(3)ソ一ゾ一(救う、助ける、治す)(4)ウキ工イス(健康になる、良くなる)(5)ルオー(解放する、ほどく)(6)ザオー(直る、生きる、生き続ける生命力)
※ ザオーは『神によって生かされる命』として使われています。新約聖書では
『イエス様が語られた言葉によって生きる事を教えています。』『生きる』ことは『永遠の命』に生きる事です。私達人間の一番大切な生きる目的の為に生きましょう
『神の栄光を表わし、神を喜ぶことです。』
「誠に誠にあなたがたに告げます。私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会う事がなく、死から命に移っているのです。誠に誠にあなた方に告げます。死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです。(ザオー︙神によって生かされる命を持つのです。=永遠の命)ヨハネ5:24-25
「婚宴の楽しい喜び」
主の園(エデン=喜び楽しみ)与えられる所が天国です。しかし今私達は、この世の中で生活しています。その中で主の園「喜び楽しみ・感謝歌声とがある」所はどのようにしてでしょうか?ヨハネ福音書は『7つの奇跡』を書く事によって、イエス・キリスト様がメシヤ(救い主)である事を証明しています。今回第2は、ヨハネ2:1-11
『カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡』を学ます。『イエス様を信じる事は、天国で喜び楽しみ・感謝歌声の婚宴が与えられる。』ことなのです。
【1】カナの婚礼は天国の婚礼を表わしています。(ヨハネ2:1-11)婚礼についてはマタイ22:1-14「天の御国は王子の為に結婚の披露宴を設けた王に譬える事ができます。」
婚礼には礼服が必要でした。(マタイ22:11)
礼服とは『イエス・キリスト様の十字架と復活による贖いの事(福音)を信じる信仰』です。
*イザヤ61:10「私は主によって大いに楽しみ、私の魂も、私の神によって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」
*イザヤ66:5「花婿(イエス・キリスト)が、花嫁(教会・クリスチャン達)を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」また、新約聖書では、
黙示録21:1-4は、天の御国の婚宴です。
【2】きよめの水がぶどう酒に変わる奇跡
(2:6-9)ユダヤ人のきよめのしきたりの水。ユダヤ人は祭儀律法では、食事の前、食事中に手を洗ってきよめて食べなければなりませんでした。「偽善の律法学者パリサイ人達、あなた方が・・・外側は美しく見えても内側は・・・あらゆる汚れた物でいっぱいです」(マタイ23:27マルコ7章)【きよめの水】は、神様によって聖とされる為の祭儀律法です。それは内外の心を聖くする為のものです。ですからイエス様はあえて【きよめの水】を『ぶどう酒』に変える事を通して、私達の心の罪を『ぶどう酒』によって『きよめ』て下さるのです。イエス様は、このぶどう酒を最後の晩餐の時こう言われました。「皆。この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)『ぶどう酒』によって酔う姿はペンテコステの日『聖霊に満たされ酔っている姿』として現されています。「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ』(使徒2:13)
※聖霊に酔うこと=聖霊に満たされることによって『イエス様を自分の救い主として告白する事ができます。」(1コリント12:3)
※私達の人生がぶどう酒に酔う(満たされる)事は聖霊に満たされて生きる事です。
「御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。」(ガラテヤ5:22ー23)
※聖霊のぶどう酒を飲み続けるには、
【祈りと御言葉(聖書)】に満たされつづけることです。(使徒4:31、10:44)
【3】水汲みのしもべが受ける恵み(2:7-9)「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか知らなかった。・・・しかし、水を汲んだ手伝いの者達は知っていた。」『手伝い』=ディアコノスは(奴隷:ドゥロス、ではなく)『給仕者』です。給仕者は初代教会では執事と記しています。(1テモテ3:10)ですから、執事は、自ら進んでその仕事に仕える人のことです。この給仕達は水がめ6個とはドラム缶を9缶〜12缶をいっぱいにする重労働をしました。それがどのようにぶどう酒になるか。それは主の御用の為に労した者だけが『知っていた』=オイダ(悟る)つまり、イエス様が神様の力をもった方であることを、時制がアオリストですから『確かに悟った』のです。『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:6)
※ 給仕人達は『確信、完全に』ぶどう酒は、イエス・キリスト様から出て来た事を『悟った』のです。
※ 私達の信仰も試されます『神にとって不可能な事は一つもありません。』(ルカ1:37)
※今日、私達も神様は福音(十字架による罪の赦し、3日目の復活による永遠の命)を
イエス・キリスト様を信じるだけで与えられる奇跡を信じて、伝える『給仕人』とされたのです。(エペソ3:7)
※現代も、イエス・キリスト様は
『全世界に出て行き、全ての造られた者に福音を伝えなさい。(給仕しなさい)』(マルコ16:15)
『見よ。わたし(イエス様)は世の終りまでいつもあなたがたと共にいます。』(マタイ28:20)と、励まし続けています。
「 神を信じる」
「津田梅子は、江戸時代末期の1864年(明治元年)12月大晦日。現在の東京、新宿区で生まれた。武家の娘として3、4歳の頃から読み書きも習い事も始めて賢く育った梅子。1871年(明治4年)かつては幕府の外国奉行所通訳だった仙(父親)が6歳の娘をアメリカ留学に応募したことから、梅子の言う「不思議な運命」に導かれる人生が始まった。募集から約2ヶ月後の12月23日、日本最初の女子留学生となった梅子たち5人の少女は、岩倉使節団と共にアメリカに渡る大型船で横浜港を出発した。一一サンフランシスコまで23日間の旅の船上で、梅子は7歳の誕生日を迎える。サンフランシスコから列車でアメリカを横断し、首都ワシントンに到着したのは2月も末、日本を出てから70日がたっていた。一一7歳の梅子を預かったのはチャールズ・ランマンとその妻アデライン。夫妻共に熱心なキリスト教徒であり、子どものいなかった2人は10年の間、梅子をわが子のように祈りをもって愛情深く育てた。一一驚くことに梅子は、8歳の時に洗礼を受けたいと夫妻に申し出ている。神を中心とした2人の信仰姿勢を間近に見て生活し、毎週、日曜学校で聖書を学ぶ中で梅子の中にも小さな信仰心が芽生えていったのだ。一一梅子は、生涯にわたって神と聖書に心の軸を置いて生きる生活を、幼い頃からランマン夫妻の元で身に着けたのである。一一帰国後は教師として教えながら、学校創立の夢を温めていた。一一1900年(明治33年)9月、民家を借りてわずか10名の新入生での船出だったが、賛美歌と祈りによって「女子英学塾」の開校式が執り行われたのである。梅子は幼い頃からランマン夫妻はじめ友人・知人、教師など人に恵まれており、その多くは信仰を同じくする祈りの友でもあった。梅子の生涯は常に志と決断と実行。それらの背後には、祈りと愛による支えがあったのだ。
一一一津田梅子がアメリカの毋.アデラインへ書いた手紙一一一
1884年1月4日(19歳)の手紙
「つい昨夜、初めて伊藤氏(伊藤博文)からキリスト教について尋ねられ、2時間近くお話しをしました。(中略)その時の私の気持ちを想像してください。これはキリスト教についてお伝えする千載一遇のチャンスかもしれない!でも何をどうお伝えすればよいのでしょう。お話ししたいことはたくさんありましたのに、実はそのほとんどを口にすることができませんでした。ましてや伊藤氏と論じ合ったり、説得することなどできるはずもありません。(中略)でも、同時に次の聖句がたびたび心に浮かびます。「何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です」マタイ10:19~20 ですから、ふたたび機会が与えられたら、それを無駄にしないように、そして日々その機会を悪しきことのためではなく良きことのために用いることができますようにと祈ります。」
1885年1月25日(20歳)の手紙
「ふき(梅子の妹のふき子)が日本語の聖書を持っていたので、それを借りて数か所聖句を示しながら、キリストの誕生と死について説明しました。(キリストは、神であられる方なのに、人間になられて、私たちの罪の身代わりに十字架にかけられ、死んで葬られ、よみに下り3日目に死人の中からよみがえり、信じる者には、永遠の命が与えられる)生徒たちは驚き、不思議に思ったようです。生徒から、死後についてどう信じているのかと尋ねられたので、キリストを信じる者たちは死後、ふたたび相まみえることができるのだと伝えました。(中略)「あなたたちは、死後について、私が信じているようには信じていないでしょう。私もあなたたちのようには考えていません。でも私のように信じるのかあなたたちのように考えるのかを比べたら、私のように信じるほうが格段に幸せでしよう。ですから、私は自分の信仰を、私のいのちも含むこの世の何物とも、引き換えにしようとは思わないのです。」(百万人の福音2024年7月号より)
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)
「主の恵み」
「僕の年若いの友の一人に、べー・チェチョルさんという韓国人のテノール歌手がいます。彼は、ヨーロッパの舞台でめざましい活躍をし、アジアのオペラ史上最高のテノール歌手と呼ばれた人です。ですが、あと少しで世界の頂点に手が届くというとき、若くして突然甲状腺がんに倒れ、がんを摘出するために、声帯と横隔膜の神経を切断してしまい、話す声すら出なくなってしまったのです。歌手にとって声を奪われるということは、もしかしたら命を落とすよりつらいことだったのかもしれません。当然それまでの栄誉をひと時に失い、経済的にもつらい状況だったそうです。これまで周囲にいた人が一人また一人と、彼から遠ざかっていく中で、声の出ない彼を献身的に支えたのは、ある日本人の青年でした。音楽プデュ一サーの彼は、再起不能だといわれたべーさんに日本で手術を受けさせました。その手術は、僕の母校、京都大学医学部の名誉教授である一色信彦先生が行ったのです。世界初となる手術に挑戦された一色先生の手腕により、結果べーさんは今再びステージに立てるようになったのです。一色先生は「もし彼が歌声を取り戻せなかったら、これまで築いてきたあなたの名誉に傷がつくだけだから、そんなリスクのある手術をひき受けるべきではない」という同僚や周囲の声に対し「自分の名誉が惜しくて苦しむ患者を見捨てるわけにはいかない」と決心され、きわめて成功率の低い手術に臨まれました。同じ医療に携わる者として心から尊敬する姿だと思います。僕がべーさんの歌声を初めて聞いたのは、102歳のときです。子どもの頃から音楽が大好きで、作詩作曲するだけでなく、学生の頃には友人とトリオやカルテットをつくって歌を歌ってきた僕ですが、あのときの感動は忘れることができません。歌を聞いて神様の存在を感じたのは、僕の決して短いとはいえない人生の中でも初めてのことでした。大きな苦難を越えた彼の歌声は、言葉では言いあらわすことのできない、豊かさに溢れたものです。歌の形をした祈りそのもの。そしてそれは日本人と韓国人の友情のデュエットであり、医学と芸術のデュエットでもあります。クリスチャンであるべーさんは、歌う前に神様にこう祈るそうです。「私のために歌わぬように あなたのために歌う私でいられますように」ベーさんの歌声の後ろには、多くの人の思いと祈りがありました。それが彼を支え、世界で初めての奇跡が起こったのです。」
(生きていくあなたへ••・105歳どうしても遺したかった言葉 ︙日野原重明著より)
「あなた方は、恵のゆえに信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。誰も起こることのないためです。」
エペソ2:8-9
「婚宴の楽しい喜び」
主の園(エデン=喜び楽しみ)与えられる所は天国です。しかし今私達は、この世の中で生活しています。その中で主の園の「喜び楽しみ・感謝歌声とがある」ことはどのようにしてでしょうか?ヨハネ福音書は7つのしるしを書くことによってイエス・キリスト様がメシヤ(救い主)であることを証明しています。
今回第1はヨハネ2:1-11「カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡」を学ぶことは「イエス様を信じることは、天国で喜び楽しみ・感謝歌声の婚宴が与えられること」なのです。
【1】カナの婚礼は天国の婚礼を表わしています。(ヨハネ2:1-11)婚礼についてマタイ22:1-14「天の御国は王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます」婚礼には礼服が必要でした。(マタイ22:11)礼服とは「イエス・キリスト様の十字架と復活による贖いの事(福音)を信じる信仰」です。イザヤ61:10「私は主によって大いに楽しみ、私の魂も、私の神によって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」イザヤ66:5「花婿(イエス・キリスト)が花嫁(教会・クリスチャン達)を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」黙示録21:1-4は天の御国の婚宴です。【2】きよめの水がぶどう酒に変わる奇跡(2:6-9)ユダヤ人のきよめのしきたりの水
ユダヤ人は祭儀律法では、食事の前、食事中に手を洗ってきよめて食べなければなりませんでした。「偽善の律法学者パリサイ人達、あなたがたは一一外側は美しく見えても内側は一一あらゆる汚れたものでいっぱいです。」(マタイ23:27)きよめの水は神様によって聖とされるための祭儀律法です。それは内外の心を聖くするためのものです。ですからイエス様はあえて「きよめの水」を「ぶどう酒」に変えることを通して、私達の心の罪を「ぶどう酒」によって「きよめ」てくださるのです。イエス様はこのぶどう酒を最後の晩餐の時こう言われました。「皆この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)ぶどう酒によって酔う姿はペンテコステの日「聖霊に満たされ酔っている姿」として現されています。「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」(使徒2:13)※ 聖霊に酔うこと=聖霊に満たされることによって「イエス様を自分の救い主として告白することができます。」(1コリント12:3)※ 私達の人生がぶどう酒に酔う(満たされる)ことは聖霊に満たされて生きることです。「御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です。」聖霊のぶどう酒を飲み続けるには、祈りと御言葉(聖書)に満たされることです。(使徒4:31、10:44)【3】水汲みの下僕が受ける恵み(2:7-9)「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか知らなかった。一一しかし、水を汲んだ手伝いの者達は知っていた。」「手伝い」=ディアコノス(奴隷 ドゥロスではなく給仕者です。)給仕者は初代教会では執事と記しています。(1テモテ3:10)ですから執事は、自ら進んでその仕事に仕える人のことです。この給仕達は水がめ6個とはドラム缶を9缶〜12缶をいっぱいにする重労働をしました。それがどのようにぶどう酒になるか。それは主の御用のために労した者だけが「知っていた」=オイダ(悟る)つまり、イエス様が神様の力をもった方であること時制がアオリストですから「確かに悟った」のです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:6)※ 給仕人達は「完全に」ぶどう酒はイエス・キリスト様から出て来たことを「悟った」のです。※ 私達の信仰も試されます「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)今日も神様は福音(十字架による罪の赦し3日目の復活による永遠の命)をイエス・キリストを信じるだけで与えられる奇跡を伝える「給仕人」とされたのです。(エペソ3:7)「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を伝えなさい。」マルコ16:15「見よ。わたしは世の終りまでいつもあなたがたと共にいます。」マタイ28:20
「主の聖さ」
イスラエルの民の指導者としてモーセとアロンは40年間、主に仕えてきました。エジプトで奴隷として苦役のもとにあったイスラエルの民を脱出させるために、神が選んだ器です。聖書には至るところ「主が彼に命じられたとおりに」と記しているように、モーセとアロンは民の指導者として、神と民の仲介者として主に仕えてきました。40年間、様々な出来事がありました。私は出エジプト記、民数記とメッセージを取り次いできましたが、民数記20章に来て深く心を探られました。「神に召し出された指導者」モーセにおいては「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12:3)とあります。しかし民数記20章で「霊的指導者として」罪を犯してしまいました。このことによってモーセとアロンは、約束の地カナンに入ることが出来なくなりました。 (しかし、天国に入れなかったということではありません。ルカ9:30にイエス様は変貌された時モーセとエリヤと最後の十字架と復活の事を話していたからです)イスラエルの民の神様への不満や不信仰は、今まで何度も見てきましたが、民数記20章に関してはモーセとアロンを厳しく裁いています。1つは「感情的な怒り」でした。40年モーセは謙遜に主に仕えてきました。しかし詩篇106:32-33にこうあります。「彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それでモーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。」この感情的な怒りが今までのモーセの謙遜を崩しました。2つ目は「不従順」です。神はモーセに「岩(彼)に頼みなさい」と言われましたが、モーセは杖で2度岩を打ちました。3つ目は「不信仰」です。モーセは民を「逆らう者たちよ」と言った時、モーセ自ら、その瞬間、逆らう者として数えられてしまいました。「あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである」(民数記27:14)とは、神の宣告です。「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」(民数記20:10)の言葉は、モーセとアロンの困惑と怒りとが、不信仰と罪にまで引き落してしまったことを示しています。まして、岩は「キリスト」と言われています。(1コリント10:4)
水曜日の祈祷会でヨシュア記24章から教えられました。それは「主を恐れること」そして「主は創造主。すべてを支配しておられる方。全知全能なる方。私たちはこの方と常に顔と顔とを向かい合わせる関係を持つ事」と教えられました。2025年3月30日。私は、洗礼を受けて50年を迎えます。そして牧会生活は42年を迎えます。この民数記でモーセとアロンに起こったことは、牧会42年を迎える私に重なって言えることです。そこで私が心に深く思うことは「あなたが今、ここに命があるのは赦されているから。イエス様の十字架によって私の過去、現在、未来のすべての罪が赦されて、イエス様の復活によって罪に勝利したから。そして、あなたに使命が与えられているから。」ということです。ずっと信仰の先輩たちに教えられてきました。「私たちは、主の通り良き管となって、主に用いられやすい者となれるように」願います 。
「主の園=喜びと楽しみ」
イザヤの時代、イスラエルの民がバビロンという国で奴隷である所から救い出されたように現代の私達も罪の奴隷の中からイエス・キリストの十字架と復活によって①罪が赦され②イエス様の復活の体によみがえり変えられること。
そして罪という荒野・砂漠はエデンの園のようになり、楽しみと喜び・感謝と歌声とがある心に変えられる天国の祝福を学びましょう。
【1】主の園(エデン=喜び楽しみ)が与えられる為には自分が罪の中から救い出されたことを知ることです。「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ51:1)神殿の石垣は遠くのレバノン山から、切り出され、さまざまな所から、石が掘り出されて築き上げられました。本来は私達も罪の世界から、あえて神様が教会=神殿(天の御国)を建て上げるために集められた選びの石です。しかもまったく違った石を石垣として建て上げるのは、聖霊様の働きです。「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある宮(神殿)となるのです。このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(聖霊)によって神の御住まいとなるのです。」(1ペテロ2:6)
【2】「主はシオンを慰める」シオン(要害)の山をダビデがエブス人から攻略しダビデの町とし、そしてソロモンはその北のオフェルの丘に神殿をたてました。それで「神の都」と呼ばれました。『シオン』はイスラエル(神の民)として使われました。そしてシオンを新約聖書は「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」(ヘブル12:22)
イザヤ51、52、53章は「主のしもべ」について語られています。「主のしもべ」とは、シオン(イスラエル)現代のクリスチャン、その模範は主イエス・キリストです。イザヤ53章は「主のしもべ」主イエス・キリストの受難と十字架と復活です。「私(主)が彼ひとり(アブラハム)を呼び出し(選び)私が彼を祝福し、彼の子孫をふやした。」現代の「私達クリスチャンの慰め」は、神様がすべてのことを支配し、統治することを知って、すべてのことを委ね従うことです。私達が慰められるためには「私(神・イエス様)に聞け」=(見よ)同じ意味・心に私の教え(トラー律法)=イエス・キリストの教え)を持つ民よ。私に聞け、人のそしりを恐れるな、彼らのののしりにくじけるな。」イザヤ51:7「私の義(イエス・キリストを信じる信仰の義)はとこしえに続き、わたしの救い(キリストによる罪の赦し、復活によるよみがえり)は代々にわたるからだ。」イザヤ51:8 「まことにまことにあなた方に告げます。私のことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子(イエス・キリスト)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです。」ヨハネ5:24-25 「真理の御霊(聖霊)が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」ヨハネ16:13
【3】主に贖われた者が帰る場所エデンの園(天国)
創世記12、13、17章アブラハムへの約束①子孫がふえる ②万民の祝福 ③土地が与えられる この約束は、イザヤの時代、もうすでに実現していました。しかしイスラエルの民が罪を犯して他の神々を拝んでいました。それゆえ神はバビロン捕囚によって、その罪を裁きました。しかし70年後にまたエルサレムに帰還します。この救いも一時的でした。バビロニア⇒ペルシャ⇒アレキサンドロス⇒プトレマイオス⇒セレウコス⇒ローマ400年後イエス様の活動された時代はローマの植民地でした。AD70年ローマ将軍ティトゥスによってイスラエル人(ユダヤ人)は国を失うことになります。しかし1948年(昭和23年)イスラエル国として復興します。「主に贖われた者たちは、帰って来て、彼らは喜び歌いながら、シオンにはいり、その頭には、とこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きは逃げ去る。」 ※ 私達は天国(エデンの園=喜び楽しみ)がイエス・キリストの十字架と復活を信じることによって与えられました。今日も感謝と歌声(賛美)をもって主を礼拝しましょう !!
「喜び迎える」
今年のテーマの「主の園=喜びと楽しみ」はエデン(喜び楽しみの意味)の回復です。最後、ゴールは「天の御国、天の都」です。ヨシュア記のカナンの地(低い、へり下る、服従から低地の意味)へ導くお方はヨシュア(救い主、主は救い)ギリシャ語はイエスです。私達はイエス様に従って信仰の戦いをする必要があります。それが信仰の訓練だからです。それによって霊的な大人(成熟)として成長するためです。「嵐の湖上を歩かれるイエス様の物語」(ヨハネ6:16-21、マルコ6:45-52、マタイ14:22-33)私達の人生の海(湖)の嵐は病気、人間関係の苦しみ、悩み、悲しみ、嘆き、恐れ、死、別離…その中で平安であることができるのは、イエス様が人生の舟の中に共に乗っていてくださるからです。今回は人生の海の嵐の中で、イエス様を迎えることについて学びます。【1】「私だ。恐れることはない。」(9:20)というイエスを見ること。声(聖書の言葉)を聞く信仰です。湖という人生に強風で荒れている中を、漕いでも漕いでも前に進まない。しかも真夜中3時頃(マタイ14:24)周りはよくわかりません。信仰生活も同じように突然問題はやってきます。どうしようもない状態の時に①イエス様を見ること(6:9)不信仰はイエス様を見ても「幽霊だ」と言って恐れた(マタイ14:26)ような見方(人間的な判断)ではなく、しっかりと信仰の目で「救い主」を見るのです。イエス様はマタイ14:27「しっかりしなさい(セラセオ=信頼しなさい)私だ(イエス=救い主)恐れることはない。」と言われたのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2)ヨハネ6:1-15は「5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人の人々に給食する奇跡」です。その答えをヨハネ6:35-59で「イエスは言われた『私は天から下って来た生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。』(6:51)「いのちのパン=イエス・キリスト」を食べることは「イエス様のことば(聖書)を食べる(信じる)ことです。」「ことばは人となって私達の間に住まわれた」(ヨハネ1:14)【2】「イエスを喜んで舟(人生の中)に迎え入れる信仰です。」人生の舟に「喜んで」=セロオ(願う、望む、選び取る)です。人生の嵐に対して避けられる最大の方法は舟をどこかに漕いで避難するのではなく「あなたの舟の中に迎え入れることを喜ぶ=願う、望む、選び取って」いくことです。現代の私達に働かれる聖霊様をあなたの心の真ん中に迎え入れ、聖霊様に聞くことです。マタイ14:28-32では、ペテロはその嵐の湖の上を歩いてイエス様のもとに行こうとして湖の上を歩きました。しかしすぐ、風を見て怖くなり、沈みかけ、叫び出して「主よ。助けてください。」と言った。そこでイエスは手を伸ばし、彼をしっかりつかんで「信仰の薄い者だな。なぜ疑うのか。」そして舟に乗り移ると風は止んだ。※ 私達の人生の舟は毎日選び取って行かなければなりません。イエス様が言われる「喜んで」という言葉は「自分に都合が良いからこの事を選び取り願う」のではないということです。パウロは次のように「そればかりではなく患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私達に与えられている聖霊によって、神の愛が私達の心の中に、あふれるばかりに注がれているからです。」ローマ5:3-5 【3】私達の目的地は天の御国です。(6:21)この目的地に必ず着ける約束を信じる信仰です。「舟(人生の舟)は直ちに目的地(天国)に着いた。」6:21「着いた」=ギノマイ(来た、あった、成ったの意味)時制はアオリストですから「すでに成った。あった。来た」となります。※私達の目的地(天国)はもうすでに来ているのです。ルカ17:21 イエス様が言われました。「神の国(天国)はあなたがたの心の中にあるのです。」マタイ14:32 イエス様は嵐の湖でおぼれていたペテロを掴んで「2人が舟に乗り移ると風がやんだ。」とあります。つまり私達の人生の嵐に対してイエス様を喜んで(願い、望み、選び取って)迎え入れ、イエス様の御言葉に聞き、聖霊様に従うならば、むこう岸(天国)にもうすでに着く「来た。成った。存在した。」ことができたのです。その約束の御言葉「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は ① 神がおられることと ② 神を求める者には報いてくださる方であることとを ③ 信じなければなりません。」(ヘブル11:6)この3つのステップが大切です。
「主の権威」 Nさん
妻が教会に行きはじめて半年がたった頃、キリストを信じた妻の変化を見て「なんとかして酒をやめたい」を考えるようになり、私も教会に通い始めました。自分の中に、いつも後悔する気持ちと罪の意識がありました。この酒に縛られている自分から解放されたい。救われたいと思っていました。「神にとって不可能なことはひとつもありません。(ルカ1:37)」という聖書の御言葉に希望が与えられ、礼拝に通い、牧師先生と聖書の学びをしていくうちに、イエス・キリストの十字架の贖いが自分の罪のためであったこと、3日目に復活されたことによって、罪に勝利されたイエス様のことを信じる決心をしました。自然と酒を飲む回数が少なくなり、妻に暴言を放ったり、暴力を振るうこともなくなり、飲み仲間や親戚は不思議がっていました。妻との会話も増え、ついに妻に謝ることが出来ました。妻に対する優しさが生まれ、穏やかな態度で接するようになり夫婦関係が回復していきました。一一一さらに神様は3度の奇跡によって信仰を強めてくださいました。1度目はある日曜日の朝、教会に行く前に意識が朦朧としてきて、気を失ってしまいました。呼吸も止まっていたそうです。その時妻は、なぜか救急車ではなく教会の先生たちを呼んで3人で必死に祈ったそうです。私は気を失っている時、遠くから呼ぶ声がするのがわかりました。その声がだんだんと大きく近くなって息を吹き返しました。気がつくと、私の側で3人が祈っていました。2度目は高熱を出した時、病院の集中治療室に運ばれ、医者から「肺炎です。余命はあと1時間です」と言われ妻は慌てて教会の牧師先生に電話をしました。すると先生と数人の信徒の方が駈けつけて、ICUの外で私のために祈り、教会でも多くの方が私のいやしのために祈っていたそうです。10分だけという約束で医者はICUに入ることを許可してくださいました。妻は牧師を連れて入り、約40分間声をあげて祈ってくれました。その姿を見ても医者は黙ったままでした。その祈りの間に心臓の数値は良くなり、医者は「もう大丈夫ですのでご家族の方は家に帰ってもいいです」と言い、次の日、心配した妻は朝5時に病院に来ましたが、私が元気なのを見てとても驚いていました。余命1時間の宣告から祈りによって助かったのです。3度目は日曜日の礼拝後、熱が出て気分が悪くなりました。私の様子に気づいた牧師先生は、すぐに車を出して病院に送ってくださいました。肺炎と診断され「またか」と思いました。容態は日に日に悪化。妻は医者から「会いたい人をみんな呼んで」と言われ、私の命がそう長くは持たないことを意味していました。危篤状態の私のために牧師先生たちは祈るために駆けつけ、娘たちも飛んできました。一一日曜日に奇跡は起こりました。土曜日までは、医者も手がつけられず死を待つだけの状態でしたが、翌日容態が見違えるほど回復したのです。喋ることも、目を開ける事もできませんでしたが、目をしっかりと開けて会話をしている私を見て、医者も家族も口々に「これは奇跡だ」と言いました。しかもその日曜日は復活祭だったのです。イエス・キリストを信じることで私はやめられなかった酒をやめることができ、妻は本当に明るくなり、娘たちとの関係が回復され、私の命は3度も救われました。この方以外に神がいるでしょうか。人生にこんな喜びを与えてくださるのはイエス・キリストだけです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」使徒4:12